(23.4.21.金)晴れ
以前もこのブログで書いたと思うが、私のように片足に人工膝関節が入っていて、もう一方の膝も変形性膝関節症の者にとっては、水はけを良くするために施した歩道の勾配はキツくて歩きづらい。私でもそんな具合だから、車椅子を利用する人たちは、この勾配のために車椅子ごと横倒しになってしまいかねないんじゃないかと危惧する。
こんな歩道の状態は京都市だけのことなのか、全国的にそうなっているのか分からないが、今度、他の地域へ行ったときに注意して確認しておこうと思う。
様々な場所で「バリアフリー」を施しているのに、ある意味で、普段、もっとも頻繁に利用する歩道がこんなザマでは、まさに「画竜点睛を欠く」というか、「仏造って魂入れず」というか、「バリアフリー」だなんだかんだ言っても、結局は「理念先行」でしかないなじゃないか。
(23.4.22.土)晴れ
今日も、もう恒例になってしまった感のある、孫のSのお泊まりで、川端丸田町の娘宅までSを迎えに行った。
ゴルフ7ヴァリアントも納車後1週間が経ったが、未だ娘宅の家の前までは行っていない。川端丸太町の交差点を過ぎてすぐに、車1台がギリギリ通れる細い道を20mほど東へ入ったところに娘宅がある。ゴルフ7ヴァリアントは、前車ゴルフ4ワゴンより7cmほど横幅がある上に、運転席から前方のボンネットがまったく見えないスタイルということもあって、車の大きさに対する感覚がまだ十分に掴めていない。
そのため、娘宅の前まで行かずに、川端丸太町の京都バスのバス停辺りに車を止めて乗り降りしてもらっている。川端丸太町の交差点の手前から、もう娘とSの二人がバス停近くで待っているのが見えた。団地の集会所前の広場でするつもりなんだろう、セグウェイもバッグに入れて担いでいる。娘は少し遅れて孫のKと一緒に来ることになっている。
我が家に着くと、早速、セグウェイをするというので、Sに付き合って集会所前の広場に行った。私は、ベンチに座って、孫がセグウェイを乗り回しているのを、スマホを見ながら眺めていたが、さすが成長期の子供、買って初めて乗った頃に比べて段違いに上手くなっている。
午後3時頃に娘とKも我が家にやってきた。Kの方はなかなかのゴテで、私やヨメさんは扱いかねていて、もっぱら娘が相手をしているが、今日はめずらしく2時間近くも昼寝をしてくれたので、家の中は平和そのもの。
今日の夕食は、焼肉と『ジャンボ』のお好み焼きと焼きそばにすることになった。5時前に車で衣笠方面にあるジャンボにお好み焼きと焼きそばを受け取りに出かけた。以前はこのジャンボの店内でも食べることができていた。店前にはいつも長蛇の列が出来ていたが、最近はテイクアウトだけになってしまった。コロナの影響ということではなく、それ以前からテイクアウトだけに切り替えていたようだ。私たちはいつも焼き上げたお好み焼きと焼きそばを注文するが、生のキジと材料だけの注文も多いようだ。
焼肉とお好み焼きと焼きそばの夕食を終え、娘とKを車で川端丸太町まで送って行ったが、この時もまたバス停あたりに車を停めて二人を降ろした。明日は、ヨメさんと娘たち3人と一緒に岡崎公園や動物園に行く予定で、車を娘宅の家前の車庫に置いて出かけることにしてあるため、どうしても細い道を通っていかなければならない。
(23.4.23.日)晴れ
今日は、岡崎公園と動物園に行くために11時半頃に車で家を出て、いよいよ例の細い道を通って娘宅まで行った。いざ通ってみると、スムーズに通れたが、車に取り付けられているセンサーのモニターを見ていると、横側は赤いラインが出ていたので、結構、道沿いの建物との距離はギリギリのようだ。家の前の駐車場でも、モニターに映った画像を見ながらギリギリに駐車することができた。車を娘宅前の車庫に置いて、疏水沿いの冷泉通りをブラブラと岡崎公園に向かった。
岡崎公園では、週末はいつも何かのイベントが開かれている。今日は環境や自然をテーマにした食品や生活用品などのマーケットが開かれていた。また、ロームシアターでは音楽のイベントが開かれていて、シアター前の広場では中高生のブラバンの演奏があった。
車を娘宅の車庫に置いて、疏水沿いの冷泉通りをブラブラと岡崎公園に向かった。
岡崎公園では、週末はいつも何かのイベントが開かれている。今日は環境や自然をテーマにした食品や生活用品などのマーケットが開かれていた。また、ロームシアターでは音楽のイベントが開かれていて、シアター前の広場では中高生のブラバンが演奏していて、しばらく演奏を観てから動物園に向かった。
動物園に行くのは、娘たちが帰国してから3回目になる。これまではSの始業式とKの入園式の際に、それぞれ他方の孫を預かったときに、芸もなく、同じように動物園に連れて行った。今日も園内を一周して、その後、食事をとるために園を出て、空いていそうな店を探したが、日曜日ということもあってどこもいっぱいの状況だった。外国人観光客がかなり目立っていて、動物園にもかなり来園者があった。おそらくガイドブックなどで観光スポットとして載っているんだろう。
【今日の読書373】※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
A-43『明治大正史 上』
B-49『生物の世界』
B-48『量子革命』
F-84『あの本は読まれているか』
G-14『失われた時を求めて14』
H-5『自省録』
L-8『それから』
コメント:前回に引き続いて、今回も、今西錦司のB-49『生物の世界』第三章「環境について」で印象に残った箇所を抜粋した。
p.61-62「生物は外から食物をとり入れなければならないといっても、自分に同化し得ないものまでもやたらにとり入れていたのでは、生活は円滑に進められないだろうし、自分の仲間と自分の敵との見境がつかないようではこれまたけっして生活の円滑な進行が望めないそういない。そう考えると生物にとって食物とは自己の体内に取り入れられたから食物なのではなくて、すでに環境に存在するうちから食物でなければならないし、敵はまたそれに危害を加えられ、殺されたからはじめて敵となるのではなくて、害され殺される前にすでに敵であることがわかっていなければならないのである。だから生物と環境と一口にいっても、生物としてはまずこういった生活に必要かくべかざるものものの認識がすなわち環境の認識なのであろう。食物や敵を認めることもなしに、月や星を認めたところで、それは生物にとって無意味なことでしかない。しかしこの認識なるものをもう一歩進めて考えてみるのに、食物は口から体内へとり入れたからといってただちに自分に同化されたわけではない。消化管の管内というものは考えようによっては外界が我々の身体にまで入り込んでいる部分であり、環境の延長であるとも考えられる。生物は完結体系などといってもその身体はこういう意味で、その身体の中にちゃんと環境を担いこんでいるのである。しかし体内にとり入れられた食物がただちに生物そのものではないにしても、それはすでに生物化の過程におかれている。その食物はすでに生物そのものの部分として取扱われ、その統合性のもとに統制され支配されているのだから、それを環境の延長と見ないで生物そのものの延長であると見なしても少しも差支えがない。(中略)しからば食物は体内にとり入れられなくなくとも、生物がそれを食物として環境の中に発見したときすでに食物なのであるからして、生物が食物を食物として認めたということはすでにそのものの生物化の第一歩であり、同化の端緒であるともいえよう。環境といえば漠然としているがこうして生物が生物化した環境というものは、すなわちなんらかの意味において生物がみずからに同化した環境であり、したがってそれは生物の延長であるといい得るのである。」
p.63「環境といい生活の場といってもそれはいつでも生物から切り離せるものであり、そこで生物の生活する一種の舞台のようにも考えやすいが、生物とその生活の場としての環境とを一つにしたようなものが、それがほんとうの具体的な生物なのであり、またそれが生物というものの成立している体系なのである。」
p.64「生物を身体的即生命的なものといっても、それを環境から切り離された生物という体系に限定して考えることも一つの考え方であるし、また環境を含めた環境生物という体系を考えることも一つの考え方なのである。身体的ということは一面物質的ということであり、環境と生物といってもこれを物質的に見た場合には、一種の連続があることは食物を例にとって先に述べたとおりである。だから食物というものを素直にわれわれの身体の延長であると見なす勇気があるならば、その食物にはまたわれわれの生命の延長が感ぜられると考えたってけっして矛盾したものではないだろう。実際われわれの身体にだっていろいろな部分があって、毛髪や爪のようなわれわれの身体の延長にすぎないといった感じによくあったものもあれば、また入れ歯や眼鏡のように、元来は一種の道具にすぎないはずであるにもかかわらず、もはやわれわれの身体の一部分として、まるでわれわれの神経が通っているかのように感ぜられるものもある。道具というものはもともとわれわれの身体を補足するものとしてつくったのであろうから、道具をわれわれの身体的延長と考える方が食物をそう考えるよりももっと自然的であるかも知れない。」
p.69「生物はその統合性によって自己および自己をとりまく環境ないしは世界を統制し支配している。環境といい世界というものも要するに自己の延長であるとすれば、生物の統合性とはすなわち自己の統制であり支配である。われわれのように神経中枢の発達したものであれば、そこにわれわれの意識の中心といったものがあって、それがまたわれわれの行動とか生命とかの中心を代表するものであろうから、われわれの場合ならこの統合性ということがただちに自主性ということであり、あるいは主体性ということであるといってももちろん差支えのあろうはずはないのである。」
【今日の映画373】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『新聞記者』(Amazon Prime Videoで視聴)
原題:
製作年:2019年
製作国:日本
監督:藤井道人
出演:シム・ウンギョン/松坂桃李/本田翼/岡山天音/北村有起哉/高橋和也
ストーリー:日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育った東都新聞社会部の若手記者・吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は、記者会見でただ一人鋭い質問を繰り返し、記者クラブ内で厄介者扱いされるばかりか、社内でも異端視されていた。ある日、社会部に大学新設計画に関する極秘情報が記された匿名FAXが届き、吉岡は上司の陣野(北村有起哉)から調査を任される。やがて内閣府の神崎(高橋和也)という人物が浮上してくるが、その矢先、当の神崎が自殺してしまう。そんな中、かつての上司であった神崎の死に疑問を抱く内閣情報調査室(内調)の若手エリート杉原拓海(松坂桃李)と巡り会う吉岡だったが・・・
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは3.5、TSUTAYAは3.20、Filmarksは3.7で、私の評価は3.5とした。
現役の東京新聞記者の同名ベストセラーを原案に、若き新聞記者とエリート官僚の対峙と葛藤をオリジナルストーリーで描き出した社会派サスペンス。第43回日本アカデミー賞では最優秀作品賞、最優秀主演男優賞(松坂桃李)、最優秀主演女優賞(シム・ウンギョン)の3冠に輝いたとのこと。
「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。本作品は安倍政権にまつわる数々のスキャンダル「モリ・カケ・サクラ」をヒントにしたんだろうが、この「事実は小説よりも奇なり」という言葉の前には、名作といえども如何ともし難いというところかな。
【今日のジャズ373】※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
アーティスト:Lee Konitz
レーベル:Atlantic/イーストウェストジャパン/ワーナーミュージックジャパン
録音年月日:1955.6.14
曲名:@Topsy/AThere Will Never Be Another You/BI Can't Get Started/CDonna Lee/DTwo Not One/EDon't Squawk/FRonnie's Line/GBackground Music
ミュージシャン:Lee Konitz (as)/Warne Marsh (ts)/Sal Mosca (p)/Billy Bauer (g)/Oscar Pettiford (b)/Kenny Clarke (ds)/Ronnie Ball (p)
コメント:レニー・トリスターノ門下のリー・コニッツ (as)とウォーン・マーシュ (ts)が組んだ本作は、両者のやりとりを禅問答のように淡々とした形で綴ったもの。サックス・バトルからは程遠い。会話しているようなふたりのプレイは、一卵性双生児を思わせる趣で最後まで続く。〈トプシー〉〈ドナ・リー〉では、情感を極力抑えたソロが異常なほどテンションの高い演奏を生み出す。これぞトリスターノ派の極意である。(『レーベルで聴くジャズ名盤1374』から引用)
<YouTubeライブ映像>