2023年04月23日

逃病日記493(23.4.23.日)

(23.4.21.金)晴れ
 以前もこのブログで書いたと思うが、私のように片足に人工膝関節が入っていて、もう一方の膝も変形性膝関節症の者にとっては、水はけを良くするために施した歩道の勾配はキツくて歩きづらい。私でもそんな具合だから、車椅子を利用する人たちは、この勾配のために車椅子ごと横倒しになってしまいかねないんじゃないかと危惧する。
 こんな歩道の状態は京都市だけのことなのか、全国的にそうなっているのか分からないが、今度、他の地域へ行ったときに注意して確認しておこうと思う。
 様々な場所で「バリアフリー」を施しているのに、ある意味で、普段、もっとも頻繁に利用する歩道がこんなザマでは、まさに「画竜点睛を欠く」というか、「仏造って魂入れず」というか、「バリアフリー」だなんだかんだ言っても、結局は「理念先行」でしかないなじゃないか。

(23.4.22.土)晴れ
 今日も、もう恒例になってしまった感のある、孫のSのお泊まりで、川端丸田町の娘宅までSを迎えに行った。
 ゴルフ7ヴァリアントも納車後1週間が経ったが、未だ娘宅の家の前までは行っていない。川端丸太町の交差点を過ぎてすぐに、車1台がギリギリ通れる細い道を20mほど東へ入ったところに娘宅がある。ゴルフ7ヴァリアントは、前車ゴルフ4ワゴンより7cmほど横幅がある上に、運転席から前方のボンネットがまったく見えないスタイルということもあって、車の大きさに対する感覚がまだ十分に掴めていない。
 そのため、娘宅の前まで行かずに、川端丸太町の京都バスのバス停辺りに車を止めて乗り降りしてもらっている。川端丸太町の交差点の手前から、もう娘とSの二人がバス停近くで待っているのが見えた。団地の集会所前の広場でするつもりなんだろう、セグウェイもバッグに入れて担いでいる。娘は少し遅れて孫のKと一緒に来ることになっている。
 我が家に着くと、早速、セグウェイをするというので、Sに付き合って集会所前の広場に行った。私は、ベンチに座って、孫がセグウェイを乗り回しているのを、スマホを見ながら眺めていたが、さすが成長期の子供、買って初めて乗った頃に比べて段違いに上手くなっている。

 午後3時頃に娘とKも我が家にやってきた。Kの方はなかなかのゴテで、私やヨメさんは扱いかねていて、もっぱら娘が相手をしているが、今日はめずらしく2時間近くも昼寝をしてくれたので、家の中は平和そのもの。
 今日の夕食は、焼肉と『ジャンボ』のお好み焼きと焼きそばにすることになった。5時前に車で衣笠方面にあるジャンボにお好み焼きと焼きそばを受け取りに出かけた。以前はこのジャンボの店内でも食べることができていた。店前にはいつも長蛇の列が出来ていたが、最近はテイクアウトだけになってしまった。コロナの影響ということではなく、それ以前からテイクアウトだけに切り替えていたようだ。私たちはいつも焼き上げたお好み焼きと焼きそばを注文するが、生のキジと材料だけの注文も多いようだ。
 焼肉とお好み焼きと焼きそばの夕食を終え、娘とKを車で川端丸太町まで送って行ったが、この時もまたバス停あたりに車を停めて二人を降ろした。明日は、ヨメさんと娘たち3人と一緒に岡崎公園や動物園に行く予定で、車を娘宅の家前の車庫に置いて出かけることにしてあるため、どうしても細い道を通っていかなければならない。

(23.4.23.日)晴れ
 今日は、岡崎公園と動物園に行くために11時半頃に車で家を出て、いよいよ例の細い道を通って娘宅まで行った。いざ通ってみると、スムーズに通れたが、車に取り付けられているセンサーのモニターを見ていると、横側は赤いラインが出ていたので、結構、道沿いの建物との距離はギリギリのようだ。家の前の駐車場でも、モニターに映った画像を見ながらギリギリに駐車することができた。車を娘宅前の車庫に置いて、疏水沿いの冷泉通りをブラブラと岡崎公園に向かった。
 岡崎公園では、週末はいつも何かのイベントが開かれている。今日は環境や自然をテーマにした食品や生活用品などのマーケットが開かれていた。また、ロームシアターでは音楽のイベントが開かれていて、シアター前の広場では中高生のブラバンの演奏があった。
 車を娘宅の車庫に置いて、疏水沿いの冷泉通りをブラブラと岡崎公園に向かった。
 岡崎公園では、週末はいつも何かのイベントが開かれている。今日は環境や自然をテーマにした食品や生活用品などのマーケットが開かれていた。また、ロームシアターでは音楽のイベントが開かれていて、シアター前の広場では中高生のブラバンが演奏していて、しばらく演奏を観てから動物園に向かった。
 動物園に行くのは、娘たちが帰国してから3回目になる。これまではSの始業式とKの入園式の際に、それぞれ他方の孫を預かったときに、芸もなく、同じように動物園に連れて行った。今日も園内を一周して、その後、食事をとるために園を出て、空いていそうな店を探したが、日曜日ということもあってどこもいっぱいの状況だった。外国人観光客がかなり目立っていて、動物園にもかなり来園者があった。おそらくガイドブックなどで観光スポットとして載っているんだろう。
 スタバもいっぱいだったし、普段なら穴場の『みやこめっせ』内のレストランも今日は満員。結局、前回も利用した『西尾八ツ橋神宮店』に併設された『ぎおん為次郎』に入って、私は茶そばセットを注文、ヨメさんや娘たちはラーメンということになった。
 今日は最初は、琵琶湖や植物園などにでも行こうかと言っていたが、結局は、半日、近場で安上がりに時間を潰すことができた。

【今日の読書373※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
A-43『明治大正史 上』
B-49『生物の世界』
B-48『量子革命』
F-84『あの本は読まれているか』
G-14『失われた時を求めて14』
H-5『自省録』
L-8『それから』
コメント:前回に引き続いて、今回も、今西錦司のB-49『生物の世界』第三章「環境について」で印象に残った箇所を抜粋した。
p.61-62「生物は外から食物をとり入れなければならないといっても、自分に同化し得ないものまでもやたらにとり入れていたのでは、生活は円滑に進められないだろうし、自分の仲間と自分の敵との見境がつかないようではこれまたけっして生活の円滑な進行が望めないそういない。そう考えると生物にとって食物とは自己の体内に取り入れられたから食物なのではなくて、すでに環境に存在するうちから食物でなければならないし、敵はまたそれに危害を加えられ、殺されたからはじめて敵となるのではなくて、害され殺される前にすでに敵であることがわかっていなければならないのである。だから生物と環境と一口にいっても、生物としてはまずこういった生活に必要かくべかざるものものの認識がすなわち環境の認識なのであろう。食物や敵を認めることもなしに、月や星を認めたところで、それは生物にとって無意味なことでしかない。しかしこの認識なるものをもう一歩進めて考えてみるのに、食物は口から体内へとり入れたからといってただちに自分に同化されたわけではない。消化管の管内というものは考えようによっては外界が我々の身体にまで入り込んでいる部分であり、環境の延長であるとも考えられる。生物は完結体系などといってもその身体はこういう意味で、その身体の中にちゃんと環境を担いこんでいるのである。しかし体内にとり入れられた食物がただちに生物そのものではないにしても、それはすでに生物化の過程におかれている。その食物はすでに生物そのものの部分として取扱われ、その統合性のもとに統制され支配されているのだから、それを環境の延長と見ないで生物そのものの延長であると見なしても少しも差支えがない。(中略)しからば食物は体内にとり入れられなくなくとも、生物がそれを食物として環境の中に発見したときすでに食物なのであるからして、生物が食物を食物として認めたということはすでにそのものの生物化の第一歩であり、同化の端緒であるともいえよう。環境といえば漠然としているがこうして生物が生物化した環境というものは、すなわちなんらかの意味において生物がみずからに同化した環境であり、したがってそれは生物の延長であるといい得るのである。」
p.63「環境といい生活の場といってもそれはいつでも生物から切り離せるものであり、そこで生物の生活する一種の舞台のようにも考えやすいが、生物とその生活の場としての環境とを一つにしたようなものが、それがほんとうの具体的な生物なのであり、またそれが生物というものの成立している体系なのである。」
p.64「生物を身体的即生命的なものといっても、それを環境から切り離された生物という体系に限定して考えることも一つの考え方であるし、また環境を含めた環境生物という体系を考えることも一つの考え方なのである。身体的ということは一面物質的ということであり、環境と生物といってもこれを物質的に見た場合には、一種の連続があることは食物を例にとって先に述べたとおりである。だから食物というものを素直にわれわれの身体の延長であると見なす勇気があるならば、その食物にはまたわれわれの生命の延長が感ぜられると考えたってけっして矛盾したものではないだろう。実際われわれの身体にだっていろいろな部分があって、毛髪や爪のようなわれわれの身体の延長にすぎないといった感じによくあったものもあれば、また入れ歯や眼鏡のように、元来は一種の道具にすぎないはずであるにもかかわらず、もはやわれわれの身体の一部分として、まるでわれわれの神経が通っているかのように感ぜられるものもある。道具というものはもともとわれわれの身体を補足するものとしてつくったのであろうから、道具をわれわれの身体的延長と考える方が食物をそう考えるよりももっと自然的であるかも知れない。」
p.69「生物はその統合性によって自己および自己をとりまく環境ないしは世界を統制し支配している。環境といい世界というものも要するに自己の延長であるとすれば、生物の統合性とはすなわち自己の統制であり支配である。われわれのように神経中枢の発達したものであれば、そこにわれわれの意識の中心といったものがあって、それがまたわれわれの行動とか生命とかの中心を代表するものであろうから、われわれの場合ならこの統合性ということがただちに自主性ということであり、あるいは主体性ということであるといってももちろん差支えのあろうはずはないのである。」

今日の映画373】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『新聞記者(Amazon Prime Videoで視聴)
原題:  
製作年:2019年
製作国:日本
監督:藤井道人
出演:シム・ウンギョン/松坂桃李/本田翼/岡山天音/北村有起哉/高橋和也
ストーリー:日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育った東都新聞社会部の若手記者・吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は、記者会見でただ一人鋭い質問を繰り返し、記者クラブ内で厄介者扱いされるばかりか、社内でも異端視されていた。ある日、社会部に大学新設計画に関する極秘情報が記された匿名FAXが届き、吉岡は上司の陣野(北村有起哉)から調査を任される。やがて内閣府の神崎(高橋和也)という人物が浮上してくるが、その矢先、当の神崎が自殺してしまう。そんな中、かつての上司であった神崎の死に疑問を抱く内閣情報調査室(内調)の若手エリート杉原拓海(松坂桃李)と巡り会う吉岡だったが・・・
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは3.5、TSUTAYAは3.20、Filmarksは3.7で、私の評価は3.5とした。
 現役の東京新聞記者の同名ベストセラーを原案に、若き新聞記者とエリート官僚の対峙と葛藤をオリジナルストーリーで描き出した社会派サスペンス。第43回日本アカデミー賞では最優秀作品賞、最優秀主演男優賞(松坂桃李)、最優秀主演女優賞(シム・ウンギョン)の3冠に輝いたとのこと。
 「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。本作品は安倍政権にまつわる数々のスキャンダル「モリ・カケ・サクラ」をヒントにしたんだろうが、この「事実は小説よりも奇なり」という言葉の前には、名作といえども如何ともし難いというところかな。

【今日のジャズ373※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
アーティスト:Lee Konitz
レーベル:Atlantic/イーストウェストジャパン/ワーナーミュージックジャパン
録音年月日:1955.6.14
曲名:@Topsy/AThere Will Never Be Another You/BI Can't Get Started/CDonna Lee/DTwo Not One/EDon't Squawk/FRonnie's Line/GBackground Music
ミュージシャン:Lee Konitz (as)/Warne Marsh (ts)/Sal Mosca (p)/Billy Bauer (g)/Oscar Pettiford (b)/Kenny Clarke (ds)/Ronnie Ball (p)
コメント:レニー・トリスターノ門下のリー・コニッツ (as)とウォーン・マーシュ (ts)が組んだ本作は、両者のやりとりを禅問答のように淡々とした形で綴ったもの。サックス・バトルからは程遠い。会話しているようなふたりのプレイは、一卵性双生児を思わせる趣で最後まで続く。〈トプシー〉〈ドナ・リー〉では、情感を極力抑えたソロが異常なほどテンションの高い演奏を生み出す。これぞトリスターノ派の極意である。(『レーベルで聴くジャズ名盤1374』から引用)
<YouTubeライブ映像>
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2023年04月20日

逃病日記492(23.4.20.木)

(23.4.17.月)晴れ
 今日は、マイカーの交通安全の御祈祷を受けるために『狸谷山不動院』に行ってきた。京都では、車の交通安全のご祈祷にはこの寺院に行く人が多い。一乗寺の山沿いにある『詩仙堂』に行く道のもっと先にあって、「こんなとこにあるの?」って思いつつ、かなりの坂道を登っていくことになる。
 ご祈祷は、午前10時から午後3時の間、各時刻の00分ごとに6回行われる。ヨメさんを同乗して行ったが、2時半頃に狸谷山不動院の駐車場に着いたので、今日最後の午後3時からのご祈祷ということになる。寺院はかなりの山上にあるので、駐車場から京都市内の左京区辺りが一望できる。
 ご祈祷の時刻までスマホを見たりしていたが、午後3時近くになっても受付の事務所はカーテンが閉じられたままで、他のご祈祷の車もいない。「なんで?」と思いつつ、ウェブサイトに載っている電話番号に電話をしてみたところ、今日の午後3時からのご祈祷は都合に中止になっており、事務所にその旨の張り紙をしてあるとのこと。いくら探しても張り紙は見当たらなかったが、“縁起”ものだけに、頭にきて「もう、来たるかい!」というわけにもいかない。明日、改めて出直すことにした。

(23.4.18.火)曇り
 昨日、ご祈祷を受けられなかった『狸谷山不動院』に出直したが、ヨメさんがエル・スポーツのスイミング・スクールの日なので私ひとりで行くことにした。
 今日は午後2時のご祈祷を受けるために自宅を出たが、もたもたしていて少し遅れて、時間的に間に合わないようになってきたので、午後3時からのご祈祷に変更した。
 また家に引き返すのも時間が無駄なように思ったので、以前、利用していたことのある岩倉にあるコイン洗車場を下見に行くことにした。ゴルフ4を買った頃はよく利用していたが、洗車だけではなくワックスもかけたりするとなると、結構、重労働になるので、いつの頃からか、給油時にガソリンスタンドの洗車・コーティングを利用するようになっていた。
 先日来の黄砂を洗い落とすのには、自分で手洗いしたほうがいいだろうと思って、かつて利用していた岩倉のコイン洗車に行くことにした次第。しかし、なんせ20年も前のことなので、いまでもその洗車場があるんだろうかと思ってGoogleマップで調べてみたが、どうも見当たらない。地図上では、この近辺にあるのは北区にあるMKボウルの横にあるコイン洗車場だけだった。岩倉にあったコイン洗車場は、空き地を利用したシンプルなものだったので、念のために、直接、行って確認することにした。午後3時の御祈祷までは間があったので、ゴルフ7  以前のゴルフ4よりはサイズもデカく、電子・自動制御などが多用されている  の運転に慣れることも兼ねて岩倉方面まで行ってみることにした。
 かつて知った岩倉  学生時代に岩倉近辺に住んでいたことがある  に来ると、なんとなく懐かしくなるが、結構、様変わりした感じがした。コイン洗車場があったと思しい場所は、コイン・パーキングに変わっていた。コイン洗車場がなくなっていたのを確認した後、適当にその近辺を周ってから『狸谷山不動院』に引き返すと、駐車場には他にもう1台だけご祈祷に来た車がいた。
 定刻どおり午後3時になってご祈祷が始まったが、坊さんが大きな声をあげてなにやら唱えていた。なんやようわからんけど、交通安全の御利益が担保されたということだろう。

(23.4.19.水)
 ゴルフ7ヴァリアントには、電子機器を用いた自動制御システムが多く取り入れられているが、その一つに「オートホールド」という機能がある。停車時にブレーキを踏むと、ブレーキペダルから足を離していても、アクセルを踏むまではブレーキがかかった状態が維持されるという機能だが、最初は便利な機能だと思っていたが、少しリスクがあることに気づいた。
 最近、よく高齢者の運転に関して、「アクセルとブレーキの踏み間違い」が原因である事故が多いとの報道に接することが多い。その「アクセルとブレーキの踏み間違い」の原因ついては、あたかも当然のことのように、「高齢者の判断能力が鈍っている」ことに起因するかのような内容の報道が多い。
 ゴルフ7ヴァリアントに乗り換えて気づいたが、「オートホールド」機能は便利なものだが、これを利用すると、ブレーキとアクセルのペダルを頻繁に踏み換えるということをしなくなる。停車時にブレーキから右足を外しても、オートホールド機能によりでブレーキがかかった状態になっている。再びスタートするときには、フリーになっている  以前の車ならブレーキを踏んだ状態  右足でアクセルを踏めば、ブレーキが解除されて車は再スタートする。以前のようにブレーキを踏んだままでいるのは、それなりに右足に負担がかかる。長時間のドライブや運動後の運転で疲労しているときなどには、結構、辛いときもあるので、このオートホールド機能のメリットは大きいことは間違いない。
 ところが、左折時に歩行者が渡りきるまで待つ時や渋滞の時など、ブレーキとアクセルのペダルを頻繁に踏み換える必要がある時があるが、この時のタイミングにオートホールド機能を使っていると、「ペダルを踏み換えるの感覚」が麻痺してしまうように思う。
 ゴルフ7ヴァリアントに乗り換えてまだ1週間ほどしか経っていないが、「左折時に歩行者が渡りきるまで待つ時」に、小刻みなペダルの踏み換えを動作を勘違いして、ブレーキを踏むつもりが、アクセルを踏み込んでしまってヒヤッとしたことがあった。短期間の間に同じようなこと2回もあったが、これが「アクセルとブレーキの踏み間違い」事故の原因ではないかと思い至った。

(23.4.20.木)
 昨日、岩倉のコイン洗車場に行ったが駐車場に変わっていた。それで、ネットにあった、もう一箇所の近場のコイン洗車場  MKボウルの隣にある  MKカーピカランド上賀茂』行ってみることにした。我が家からは遠いように思ったが、地図上で見ると岩倉のコイン洗車場のあった場所と左右対称の位置になり、距離的にはそれほど変わらない。
 iPhoneのGoogle Mapsでナビって自宅を出て、北大路通りを西進、加茂街道に出てしばらくそこを北上した後、西加茂橋で対岸に渡って、MKボーリング場に通ずる賀茂川沿いの道に出た。
 目指すMKカーピカランドはMKボウルの北隣にあった。ウェブサイトの写真では広い場所のように見えたが意外とショボいスペースしかない。そこに手洗い洗車場とドライブスルーの自動洗車機が併設していた。黄砂の時期だったので手洗い洗車場は満車状態で、ドライブスルーの自動洗車機にも順番待ちの車列ができていた。「こんなんまってられんわ」と諦めて、引き返して、これまで利用しているガソリンスタンドの手洗い洗車にすることにした。
 この辺りは、これまであまり来たことがなかったので、間違って、上賀茂神社の駐車場に行ってしまったり、はたまた堀川通りの方に行きかけたりと、あちこち寄り道をしたあげく、下鴨高木町のガソリンスタンドに辿り着いた。しかしここの洗車場も黄砂で汚れた車で混み合っていた。予約ができるとのことだったので、翌日の金曜日に洗車予約をして帰宅た。あとで、プールから帰ってきたヨメさんに「どっか行ってたん?」と訊かれたので「ちょっとドライブや」とゆうといた。
 たかが洗車場に行くだけで、あちらこちらと車を走らせたが、まあ今は、新しいゴルフ7ヴァリアントを運転するのが楽しくて仕方がないので苦にならない。

【今日の読書372※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
A-43『明治大正史 上』
B-49『生物の世界』
B-48『量子革命』
F-84『あの本は読まれているか』
G-14『失われた時を求めて14』
H-5『自省録』
L-8『それから』
コメント:前回に引き続いて、今西錦司のB-49『生物の世界』から、今回は第三章「環境について」で印象に残った箇所を抜粋した。
p.52「あえて生物といわずともこの世界そのものがものの世界であり、物質の世界であると見ることは、世界の正しい一つの見方でなければならぬ。しかし生物という物質はもはや単なる化合物の集積ではなくて、物質のすこぶる複雑な有機的統合体である。そしてその複雑な有機的統合体のあらわす有機的統合作用が生命であり生命の現われである。」
p.55「生物とは部分がさきにあって合成された全体でもなければ、全体がさきにあって部分を分離したものでもない。もとは一つのものから生成発展し、作られたものが作るものとなるといっても細胞の分裂は結局全体を完成するための分化であった。だから生物という全体にも統合性を認め、統合性というものには一定の方針とかプリンシパルとかいったものが予想されるとしたならば、それはもう発生初期の細胞時代からずっと引きつづいた統合性が、あるいは方針があったものとしなければ、この生物の発生とか生長とかいうことは理解できなくなるのである。いやその最初の分裂前の受精卵さえ、偶然できたものではないのだから、生物におけるこの統合性ないしは方針というものは親から引きついだ遺伝的のものでなけれなならぬ。」
p.56-57「細胞が細胞をつくって行くということは一個体の維持ということにほかならないし、個体が個体をつくって行くということは種族の維持ということにもなるが、それは細胞の立場においては細胞の維持であり、個体の立場においては個体の維持ということを成り立たせるための現象であると見なすことができるのである。(中略)細胞が細胞を再生し、個体が個体を再生して行くことによって、細胞といい個体というものもそれが世界の構成要素たり得るのであり、またそれによってこの世界が成り立ちこの世界が持続されて行くのである。この生物がみずからを維持せんがためにたえずみずからをつくって行く、作られたものがまた作るものとなって行くということを生きることというならば、この生きるということこそは生物という有機的統合体における指導方針でなければならぬ。いいかえるならば生物においては生きることそれ自体が目的となっていなければならぬ。(中略)これを生命の持続といっても差支えがないが、とにかくこの世界における生物は生きるということによってこの世界の生物たり得るのであって、それは大脳や精神作用を引っぱり出すより以前のもっと根底的な原理的なものなのである。」
p.58「生物が一定の形を持つということ、生物体が一つのそれ自身として完結した独立体系であるということは、それゆえ生物における統合性の現われであり、あるいは統合性というもののもつ空間性の現われであるといってもいいであろう。細胞もこの意味では細胞膜によって空間的に限定せられた一つの完結体系であり、細胞がそもそもこのような完結体系であるゆえに生物もまた完結体系をもつものであるかもしれない。」
p.58-59「生物という統合体が独立体系であるということの結果として、生物とその外界あるいはそこに生物を入れているものとしての環境というものが考えられる。けれども独立体系としての生物であっても、生物が生きて行くためにはその外界からあるいはその環境から生物はまず食物をとり入れねばならない。またはその中に配偶者を見出さねばならないということは、生物は環境をはなれては存在し得ない。その意味で生物とはそれ自身で存在し得る、あるいはそれ自身で完結された独立体系ではなくて、環境をも包括したところの一つの体系を考えることによって、はじめてそこに生物というものの具体的な存在のあり方が理解されるような存在であるということである。環境から取り出し環境を考慮の外においた生物はまだ具体的な生物ではないのである。(中略)外界あるいは環境というものがすでに存在していてそこに生物が発生してきたのではないということである。環境といえどもやはり生物とともにもと一つのものから生成発展してきたこの世界の一部分であり、その意味において生物と環境をはもともと同室のものでなければならぬ。」

今日の映画372】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『つぐない(Amazon Prime Videoで視聴)
原題:Atonement
製作年:2007年
製作国:イギリス・フランス
監督:ジョー・ライト
出演:キーラ・ナイトレイ/ジェームズ・マカボイ/シアーシャ・ローナン/ロモーラ・ガライ/ジュノー・テンプル/パトリク・ケネディ/ベネディクト・カンバーバッチ
ストーリー:1935年のイングランド。幼なじみでケンブリッジ大学の同窓生でもある官僚の娘セシーリア(キーラ・ナイトレイ)と使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)は、身分の壁を越えて愛し合っている。セシーリアの妹ブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、小説家を夢見る13歳の多感な少女で、思いを寄せるロビーと姉の噴水での不自然な様子や卑猥な手紙など、大人の恋のやり取りを目撃して強いショックを受ける。姉妹の兄リーオン(パトリク・ケネディ)が友人のポール(ベネディクト・カンバーバッチ)を連れて戻って来る。姉妹の従姉妹ローラ(ジュノー・テンプル)は「双子の弟たちに乱暴された」傷のことをブライオニーに相談する。ローラに同情したブライオニーは、ロビーの卑猥な手紙について彼女に話してしまう。その夜、ブライオニーは姉とロビーの図書室での情事を目撃し、激しい嫌悪感を抱く。三人は何事もなかったかのようにディナーの席につくが、同席したポールの顔には「双子にひっかかれた」傷があった。ほどなくローラの弟たちが家出したことが判明し、一同は敷地内を捜索する。その最中、ローラが何者かに強姦される事件が発生し、ブライオニーはその現場を目撃してしまう。そして、ブライオニーは嫌悪感と思い込みからロビーが犯人であると証言したため、彼は連行され、屋敷にはロビーの母の悲痛な叫びがこだまする。事件から4年後・・・
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは3.8、TSUTAYAは3.40、Filmarksは3.8で、私の評価は3.5とした。
 ひとりの無垢な少女の嘘によって人生を狂わされてしまった一組のカップルの運命を描くいた作品。いかにもイギリスの作品といったテイストの映像だが、内容的にはまさに「つぐない」そのものという感じ。善悪を弁えない少女の残酷な「嘘」が、幸せな未来が訪れたであろう二人男女の人生を狂わせてしまった。

【今日のジャズ372※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:Slow Freight
アーティスト:Ray Bryant
レーベル:Cadet
録音年月日:1966.12.8
曲名:@The Return Of The Prodigal Son/ASlow Freight/BAmen/CIf You Go Away/DAh The Apple Tree ( When The World Was Young )/ESatin Doll/FThe Fox Stalker
ミュージシャン:Art Farmer (tp,flh)/Snooky Young (tp,flh)/Ray Bryant (p)/Richard Davis (b)/Freddie Waits (ds)
コメント:レイ・ブライアントのファンキーな魅力を満載した作品。レギュラー・トリオに、アート・ファーマーとスヌーキー・ヤング (tp,flh)を曲によって加え、いつもと違ったサウンドをクリエイトする。人気曲の〈エーメン〉や〈放蕩息子の帰還〉をはじめ、スタンダード・チューンの〈サテン・ドール〉まで、ブライアントのピアノが痛快に響く。当時は無視されることの多かったこの作品も、いまでは人気盤になっている。(『レーベルで聴くジャズ名盤1374』から引用)
<YouTubeライブ映像>
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2023年04月16日

逃病日記491(23.4.16.日)

(23.4.14.金)晴れのち曇り
 今週も上の方の孫のSがお泊まりということになった。なんとなく、ムコさんが帰国するまでの間は土・日曜の孫のお泊まりは恒例となりそうだが、そのムコさんの帰国が少し延びて5月の連休明けになったようだ。
 今日は、孫Sが学校から帰ってからお泊まりのために我が家に来る段取りが、孫Kが保育園から帰ってくるまでの間に速やかに行動しなければならないので非常に慌ただしい。娘宅で孫Sをクルマに乗せるのと入れ違うように娘はママチャリで孫Kを保育園に迎えに行った。
 この孫Sはなぜか料理を作るのが大好きで、いつも食べたい(作りたい?)料理をヨメさんにリクエストして、ヨメさんと一緒にキッチンで料理を作っている。娘宅では、おっとりした孫Sが料理を手伝おうと手を出すと、娘がイラチなのでシャットアウトしているらしい。孫Sが我が家にお泊まりに来たがるのは、この辺りのこと  ゲームなど、何をしていても鬼ママ(娘)からせかされたり、怒られたりすること  も一因かも知れない。こわいこわい鬼ママのもとを逃れて、あまいあまいおばあちゃんのところでゆっくりしたいのかもしれない。
 今日の晩ご飯のメニューは、自然派スーパーHELPで買ってきた刺身で海鮮丼ということになった。孫Sも大満足のようで、こんなふうに自分の食べたいものが食べれるのも我が家に来たがる理由のひとつかもしれない。もっとも、中トロやイクラなど、こんな小学生の低学年のうちから、言うままに与えていいものかと思わなくもないが・・・・・・
 8時半頃に風呂に入って、9時過ぎには寝てしまうが、それまではiPadでゲームをしたり、テレビのYouTubeで『ドラえもん』を観たりしている。家でもさせてもらっていると思うが、時間制限されているんだろうと思う。

(23.4.15.土)雨
 今日は待ちに待ったゴルフ7ヴァリアントの納車の日。
 納車といっても枚方のフォルクスワーゲン・ディーラまでこちらの方が車を取りに行かなければならない。中古車だからというわけでもないんだろうが、当初は、現在、使用中のゴルフ4ワゴンを下取りしてもらう予定だったため、乗車してゴルフ4を枚方まで持っていって、ゴルフ7に乗って帰るという段取りになっていた。ところが、そのゴルフ4を、これまで車検等でお世話になっていた車の整備屋さんのKモーターズのタイショウに譲ることになった。そのタイショウが譲渡するゴルフ4で枚方まで私を「送っていったげるで」とのことになり、京都までの帰路を私がゴルフ7を運転して帰ることになった次第。
 今日はあいにくの雨で、せっかくコーティングしてピカピカの車も雨の中で、たちまち汚れてしまって残念至極という感じ。午前中に枚方のディラーに行く約束だったので、10時前に我が家を出て、途中、Kモーターズに寄って、タイショウを乗せ、iPhoneのナビ  乗車中のゴルフ4のナビは20年前の道路状況しか反映していない  にしたがって、一路、枚方へ向かった。
 タイショウが欲しがるだけあって、ゴルフ4のエンジンは極めて快調で、なんか手放すのが惜しくなった。まあ、しかし天井のクロスは接着剤が剥がれて垂れているし、ドアがときどき開かなくなるし、そして、今回、なによりも手放すことになった決定的理由はエアバッグの不具合(警告灯が点いたままで走行中も消えない)だが、孫たちを乗せる機会も多いので、この際、乗り換えることにした次第。まあ、Kモーターズのタイショウなら多少の不具合は自分で直すだろう。エアバッグの不具合に関しては、当初、電気系統の誤作動だろうとのことだったが、タイショウに調べてもらった結果、エアバッグそのものの機能不全ということがわかった。シーベルトの不具合は法令違反になるがエアバッグの場合はそうならないそうで、タイショウは「そんなん昔の車はエアバッグなんてついてへんかったんやから」とこ事も無げな返事。
 1時間ほどで無事に  エアバックが作動するような局面にもならずに  枚方のディーラーに到着した。

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  <旧車:ゴルフ4ワゴン>  <新車:ゴルフ7ヴァリアント>

(23.4.16.日)晴れのち雨
 昨日は、雨の中、枚方のフォルクスワーゲン・ディーラで買った認定中古車を京都の我が家まで運転して帰った。
 店舗に着いて、店頭のガラス張りの展示エリアには、我が新車ゴルフ7ヴァリアント  昨日アップした上の右側の写真  が燦然と輝いて鎮座していた。コーティングを施してもらったので、まるで新車の輝きだった。
 店内で営業担当のHさんから、任意保険加入の手続きの話をしてもらった後、ゴルフ7ヴァリアントの車内で、運転操作  おなじゴルフといってもゴルフ4に比べると、サイドブレーキがなくなってエレクトロニック・パーキングブレーキになっていること等、電子機器を用いた自動制御システムを中心に格段の相違があり、新たな機器操作も多くなっている  の簡単な説明をしてもらった。
 そして、いよいよ雨の中、国道1号線を京都に向かって出発!した。私のゴルフ7の後にはKモーターズのタイショウがゴルフ4で付いてきてくれた。
 昔は、よく大阪の実家を、当時は小さかった子供たちを乗せて  当時の愛車はカローラ  名神高速を往復したので、南インター以北の経路はよく分かっているが、念のためiPhoneのナビをオンにしておいた。後続のゴルフ4との間はタイショウが間隔を空け過ぎていたため他の車が入ってきた。そのため、タイショウと打ち合わせて、東寺を目印にして1号線を右折して、九条通りから川端通りを通って帰るつもりでいたが、私が勘違いをして一つ手前の交差点で右折してしまい、十条通りに出てしまった。その後、河原町十条交差点を経て九条通りに出て、第一日赤病院手前の東福寺の高架道路を通って東大路通りを北上した。
 東大路通りを東一条通りまで帰り着いて、Kモーターズの店の前に車を停めて、タイショウに電話をすると川端荒神橋辺りとのこと、ほどなくタイショウが乗るゴルフ4がやってきた。店の前でゴルフ4の名義変更や任意保険の変更の打ち合わせをしてから自宅への帰路についた。

【今日の読書371※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
A-43『明治大正史 上』
B-49『生物の世界』
B-48『量子革命』
F-84『あの本は読まれているか』
G-14『失われた時を求めて14』
H-5『自省録』
L-8『それから』
コメント:前回に引き続いて、今回も今西錦司のB-49『生物の世界』の第二章「構造について」から、印象に残った箇所を抜粋しておく。難解というよりも、100年近く前の文章で言い回しなどで現代では使わないフレーズが多く、また同じ表現の繰り返しが多くて、入力していて、?ってな箇所も多々あった。また文章の論理展開は〈弁証法〉的な展開が多く、単なる〈形式論理〉的なロジックでは「なんでこうなるの?」と感じられる部分も散見されるが、現代でも十分通じる〈論考〉と思う。
p.42「発生的に見た場合には、一つの細胞から生長したものが、生物的身体となるのと全く相即的に、一つの細胞的生命が生長して一つの生物的生命にまで発展するのであって、そのどこまでが細胞的であり、どこからが生物的であるといった、はっきりした区切りなどはもとよりないわけであるから、したがって理屈をいえば、このようにして生成発展する有機的統合体がすなわち生物なのである。受精したときの卵は一つの細胞ではあっても、それが発生初期の生物に他ならないといい得るのである。それを一般には卵子から発芽したときとか、卵から孵化したときとか、あるいは胎生のものなら親の体内から生まれ出たときとかをもって、生物の誕生と見なし、このときはじめて生物的生命が生物的身体に附与されるものででもあるかのように解釈するのは、全くこの問題に対する便宜的な解釈にほかならないのであって、生物的身体が偶発しないのと同様に、生物的生命もまたけっして偶発したりするものではないのである。」
p.43-44「われわれの生きている世界というものは空間と時間の合一された世界である。(中略)生物が形をもち、構造を有するということは、(中略)この世界におけるものの存在様式が空間的であるゆえに、ものとしての生物の存在もまた空間的なることを現わした、存在の一つの表現にほかならないと思う。いまかりにこの世界から時間を消去してしまったような世界を想像してみるとする。そしたらそこに現出する世界というものは恐らく構造のみの世界であり、それは年をとらないとともにまた動くことのない世界であるだろう。(中略)われわれはまたこの世界から空間を消去してしまったような世界、時間だけの世界というものを考えることができるであろうか。時間を消去した世界ならまだしも想像することはできても、この恐らく構造のない時間だけの世界が私には想像もつかないというのは、われわれが世界を、やはりものの世界、形のある世界として認識するように習慣づけられて来たためであろう。(中略)われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。」
p.44「時間のない世界、単なる拡がりだけの世界は、年をとらない世界であり動かない世界であって、それならば死の世界とはいい得てもそれは生命の世界ではあり得ないのである。われわれがものの世界というときには、とかくこのような抽象された、形だけの世界あるいは構造だけの世界を考えるけれども、単なるものとして構造だけの生物であるとか、身体だけの生物というようなものが、この具体的なわれわれの世界には存在しないで、生物という以上はかならず構造的即機能的な存在であり、身体的即生命的な存在でなければならないゆえんは、すなわちこの世界が空間的即時間的であるからである。あるいは逆にこの世界の生物が構造的即機能的であり、身体的即生命的であるゆえに、それはまた空間的即時間的な世界において、よく生物的存在たり得るのであり、かくのごときがゆえに生物はよくこの世界の構成要素たり得るのである。それを構造とか身体とかがまずあって後から機能や生命が生じたり与えられたりすると考えることは、空間がさきにあって後から時間が生じると考えるようなものであり、生命と身体とを別々にみる考え方は、時間と空間とを別々なものと考えるのに等しいであろう。生物がこの世界に生まれ、この世界とともに生長発展してきたものであるかぎり、それが空間即時間的なこの世界の構成原理を反映して、構造的即機能的であり、身体的即生命的であるというのが、この世界における生物の唯一の存在様式でなければならぬと考える。」
p.46「解体が行われるというのはすなわち生物的構造が無生物構造に変わることであり、生物的機能が無生物的機能に変わることである。生物として存在するときはそれでよかったが、無生物ということになってしまうと無生物的存在として安定であるような構造なり機能なりが得られるところまで、解体が進み変化が生じるものと考えられる。」
p.48「生物というものがはじめからこの世界に存在していたのでないことが確かであるならば、そして生物の現れる以前の世界が無生物の世界であったことを認めるならば、われわれにとって生物の起源は次の二つのうちのどちらか一つを選ぶよりほかに考えようはないのである。一つは無生物の世界に生物が偶発した、したがって生命もそのときに偶発したとするものであって、それは無が有に変換した、たった一度でよいが、この世界の歴史においてそのときには無が有に変換するようなことが起こったという考え方である。いま一つの考え方というのは無から有は生じない、無生物と生物というから無と有ということになるが、無生物だってこの世界の構成要素である以上構造的即機能的な存在である。その無生物的構造が生物的構造に変り、無生物的機能が生物的機能に変わるということが無生物から生物への進化であった。これと同じように解釈するならば生命だって無から偶発したものではなくて、やはり無生物的生命が生物的生命へ進化したものだということになる。」

今日の映画371】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『レッド・エージェント 愛の亡命(Amazon Prime Videoで視聴)
原題:Despite the Falling Snow
製作年:2016年
製作国:イギリス・カナダ
監督:シャミム・サリフ
出演:レベッカ・ファーガソン/サム・リード/アンチュ・トラウェ/オリバー・ジャクソン=コーエン
ストーリー:1961年、ソ連人のサーシャ(サム・リード)はアメリカに亡命するが、両親を殺したソビエト政府に復讐するためアメリカのスパイとなり、一緒に亡命するはずだった妻カティヤ(レベッカ・ファーガソン)は祖国に取り残されてしまう。1992年、アメリカで暮らすサーシャは、アーティストの姪ローレン(レベッカ・ファーガソン)がモスクワへ行くことを知り、カティヤに思いをはせる。1959年、サーシャはカティヤと恋に落ち結婚するが、彼女はサーシャの同僚ミーシャ(オリバー・ジャクソン=コーエン)とともにアメリカに国家機密を流していた。
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは3.1、TSUTAYAは3.00、Filmarksは3.1で、私の評価は3.5とした。
 米ソ冷戦を背景に、亡命により離れ離れになった夫婦の運命を描いたラブサスペンス。「ミッション:インポッシブル」シリーズのレベッカ・ファーガソンがカティヤとローレンを1人2役で演じているとのこと、なんか似ているなとは思ったが・・・・・・
 1時間半ほどの作品だが、意外とまとまっている印象があり、「佳作」といっていいだろう。そのため、各映画サイト以上の評点をつけた。1人2役のレベッカ・ファーガソンも絶世の美人というほどの美人でもないが、憂いを帯びた感じがたまらないなぁという印象。

【今日のジャズ371※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:The In Crowd
アーティスト:Ramsey Lewis
レーベル:Argo
録音年月日:1965.5.13-16
曲名:@The In Crowd/ASince I Fell For You/BThe Tennessee Waltz/CYou Been Talkin' 'Bout Me Baby/DLove Theme From Spartacus/EFelicidade/FCome Sunday
ミュージシャン:Ramsey Lewis (p)/Eldee Young (b,cello)/Red Holt (ds)
コメント:アーマッド・ジャマルと並んで、ラムゼイ・ルイスはシカゴを代表するジャズマンのひとり。この街出身のピアニストはアーシーなタッチに特徴がある。それを最高の形で表出したのがジャズ・ロックとして大ヒットしたタイトル曲。ゴスペル・ライクなフレーズと軽快なリズムによって、ルイスの名前を一躍全米に轟かせた出世作である。エルディ・ヤング (b)のチェロがご機嫌な〈テネシー・ワルツ〉も最高。(『レーベルで聴くジャズ名盤1374』から引用)
<YouTubeライブ映像>
posted by ポピー at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 逃病日記