2015年12月12日

定点観測8

 私のブログ「社労士雑記帳」の記事の一つに「映画日記」と題したカテゴリーがあります。
 1週間ごとに、その週に観た作品に短評を付してデータ化していますが、作品によっては、時たま、テーマが現実の世界で起こっていることと交錯することがあります。
 最近の例でいえば、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが共演した『ヒート』が挙げられます。作品の中で、銀行強盗一味と警察との壮絶な銃撃戦が描かれていますが、それを観ていると、アメリカで、つい最近、起こった“銃乱射によるテロ”のことがオーバーラップして、色々と考えさせられてしまいます。


 アメリカでは、このような銃撃戦を起こそうと思えば、普通の市民でもスーパーで銃を購入して、簡単に起こすことができる、なんてことは日本の社会では想像もつきません。
 「アメリカ合衆国憲法の修正第2条」で「武器を携帯する権利」が認められているということですが、制定されたのは、1791年、“西部劇”の時代よりもさらに何十年も前の時代の話です。そんな時代に決められた約束事が、200年以上も経った現在でも、近代社会を飛び越え、アメリカの現代社会を支配しているということです。

 日本のメディアでは、NYタイムズ紙の、銃社会は「不道徳であり国家の恥」とした社説などを紹介していますが、新聞等では表面上は批判的な言説はなく(論評するに値しない野蛮な社会、批判以前の暗黙の常識の問題だ、というようなニュアンスは感じられますが・・・)、次のような、歴史的な経緯を踏まえた客観的な事実を書いただけの記事が大半のようです。

 「1791年に制定されたアメリカ合衆国憲法修正第2条には、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」とある。正規軍がなかった当時、武装市民がイギリスから独立を勝ち取った歴史を持つ米国では、今も多くの市民の間で武装による自衛意識が根強く、銃の所有や携帯が認められている。(中略)「市民の権利と自由の拡大」という大義のもと、武装による自衛の伝統が受け継がれ、広がっていく。軍隊があっても、警察組織があっても、市民が日常生活で武装による自衛を必要だと考える社会が、米国なのである。」(WEBRONZA)

 しかし、皮肉な見方をして、日本社会と引き比べてみれば、歴代、日本では〈権力者〉による「刀狩り」などにより、武士以外の者(僧侶、百姓、商人等 ー 今でいえば民衆又は市民)が武器を取り上げられ、所有することが許されなかったのに対し、「独立戦争」という市民革命を経たアメリカ社会にはそのような〈権力者〉が現れなかったし、(唯一の権力者である)アメリカ合衆国大統領もそのような行為(銃規制)をすることは、政治システム上、議会との関係でできなかった、ということでしょうか。
 また一方、市民革命を経た社会では、銃による武装蜂起 ー 革命などが起こるような社会的な背景もなかったので、治安上も規制する必要もなかったのでしょう。

 当時のアメリカ社会では、市民が武装するのは当然の権利ということになるのでしょうが、〈暴力装置〉を国家が独占した〈警察〉というシステムが整備された後も銃規制が行われなかったということの背景には、〈警察〉というシステムの国による相違があるように思います。つまり、アメリカにおける〈警察〉組織というのは、「自警団」の延長として市民が自らを守るために作ったシステムという性格を有しています(FBI(連邦捜査局)などの国家組織もありますが、州組織の場合、映画などにもよく出てきますが、検事や保安官なども選挙で決めるというのは、まさに「民主主義」そのものです。)。

 これに対し、日本の場合は、元々、〈権力者〉である“お上”の〈暴力装置〉として「奉行」などというシステムがあり、明治維新後、外国から移入された〈警察〉制度というシステムをそこに代替しただけに過ぎないのですから、国家権力の〈暴力装置〉という本質に変化はありません。

 そのような相違点や歴史的な経緯なども踏まえると、“銃規制”については、なかなか判断の難しい問題ですが、まあ、しかし、現代の“アメリカの銃社会”については、「アメリカ合衆国憲法の修正第2条」の「武器を携帯する権利」に基づくものというよりは、「全米ライフル協会」などの「武器製造業者」という巨大な既得権力により維持させられているという要素の方が大きいように思います。

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2015年09月19日

定点観測7(安全保障関連法案可決)

 集団的自衛権の行使が可能となる安保関連法案が9月19日(土)未明に参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決、成立しました。

 国会前デモのテレビ中継を見ていて、私の妻が「多数決で可決されるのが決まっているのに、今さら、こんなことをやっても意味ないのに」と何気なく呟いたので、私は、思わず、「誰もデモで法案が覆るなんて思っていないと思うよ。止むに止まれない気持ちで参加しているんだろうし、デモという方法で声を上げることに意味がないわけではない」とたしなめました。

 しかし、デモなどによるアピールは政治に対する国民の意思表示として意味がないわけではありませんが、議会制民主主義の下で現実の政治を動かすには、国会で多数決により意思を実現するしか方法はありません。

 安倍政権は、来年夏の参院選で与党で3分の2の議席を獲得し、憲法改正を目論んでいるといわれています。安倍政権の前の民主党政権に我々は裏切られました。鳩山、菅、野田と低劣で真っ当な決断もできない首相が続いた結果、一度、政権交代を果たしただけで、結局、政権は自滅してしまいました。野党に転落してからも、海江田などという無能な男に党再生を委ねざるを得ないという体たらくでした。一方で、橋下の口車に乗せられて維新に投票した有権者は、“決断できる政治”ではあるものの負の実績ばかりが積み重なる結果に、こんなはずではなかったとほぞを噛んでいる始末です。かと言って、いきなり共産党に投票というのも、まだまだ抵抗のある人も多いことでしょう。

 恐らく、来年夏の参院選の時期になっても、多少の再編等はあるでしょうが、現在の野党の状況は大きく変わりはないと思われます。
 それならあなたはどうしますか?自民党や公明党などの敵失に期待しますか。それとも、これまでと同じように、投票すべき政党がないのでパスしますか。しかし、これまで、そのような投票行動が、結果的に今回のような安倍独裁政権のような状況を招いたのではないのでしょうか。

 私が、現在、考えているのは、現実的に政治に参加して安倍政権が目論む「憲法改正」を阻止するという方法です。野党に政権を任せることについては、前の民主党政権で懲りて、トラウマになってしまっているので、当面、これはないとして、唯一、可能な方法は、取り敢えず、再び現在のような独裁的な政治状況を招かないよう、与党の過半数又は3分の2の議席獲得を阻止するため、議席獲得可能な野党に投票するということです(死票にしてしまっては、投票した意味がありません。)。
 選挙の際、投票したいと思われる政党がなかったとしても、これまでのようにパスするのではなく、過半数近くの野党勢力のバランスが保てるよう、そのことだけのために投票するということです(個々の野党に何かを期待するわけではありません。)。ある意味で“次善の作”をとるということになります。
 このような現実的な方法は、我々は、普段から仕事などをこなす上で、日常的に当たり前のようにとっている手段ではないでしょうか。

 理念は理念として大切ですが、それは次のステージで改めて考えるとして、現実の政治を動かすには、議会制民主主義の下では、一つひとつ、地道に石を積み上げるしか方法はないでしょう。
 その意味では、現在の我々が抱いているこの感情を、“挫折”感としてではなく、“怨念”として、来年夏の参院選まで1年間、持続させなくてはなりません。安倍政権は、我々の“怨念”を紛らすため、これから次々と“アメとムチ”の政策(特にこれからは選挙に向けて、経済や社会福祉などで“アメ”の政策)を繰り出してくることでしょう。
 それに対して我々は、これまでのように「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということのないよう、例えば、週一とか月一でデモを1年間続けるというのもひとつの方法かもしれません。今は、我々も気持ちが高ぶっていますが、1年間、気持ちや思いを持続させるのは、なかなか大変なことです。デモなどの具体的な行動をとることにより、我気持ちや思いが維持・更新されるとともに、一方で、安倍政権に対しても危機感を抱かせることができるのではないでしょうか。

 前にこのブログ「読書について(その1)」で、湯浅 誠氏の「民主主義とは面倒くさくて疲れるものだ、ということです。面倒くさくなくて疲れない民主主義があっらたいいのですが、残念ながらそれはない。その事実を直視した上で、私たちがどうするか考えましょう、と呼びかけています。」という言葉を紹介しましたが、今こそ、我々は“面倒くさくて、手間のかかる民主主義”に向けての第一歩として、“次善の作”を講ずる時ではないでしょうか。

posted by ポピー at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 定点観測

2015年06月30日

定点観測6(言論と表現の自由)

 自民党の文化芸術懇話会での一連の騒動について、テレビを見ているとコメンテーターなどが「百田尚樹氏は公人ではないので責任は問えない」と発言したり、また、朝日デジタルによれば松井大阪府知事が「自民党を叩くのはいいが、講師として行った百田氏にも表現と言論の自由はある」さらに「朝日と毎日は、百田さんの表現と言論の自由を奪っているのではないか、圧力をかけて」などと発言したとある。

 「表現することによって糧(物心は問わない)を得ている者」を言論人と称するなら、その言論人が「言論と表現の自由」のために受け入れなければならない唯一の制約がある。それは「言論と表現の自由」を損なうような発言や表現を行わないということである。その制約は言論人にとって不自由かもしれないし、表面的には「言論と表現の自由」と矛盾するかもしれない。しかし、その制約を受け入れることが言論人の矜持であり、言論人の倫理である。言論人として、自らを縛り、律するということである、言論と表現の自由のために。
 最近、よく目にするヴァルテールの「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」という言葉も、切り口は違うが同じような意味合いだろう。

 「言論と表現の自由」だから「言いたい放題、書きたい放題、なんでもあり」ということではないだろう。「言論と表現の自由」を否定するような発言、それは、最早、「命をかけて守る」べき「意見」でもなんでもない。言論人ではない、ただのゴロツキの戯言に過ぎない。
 百田氏の事後のツイターでの「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です。」などという発言は、どう見ても言論人の発言とは言えないだろう。
 松井大阪府知事の発言に至っては、まさに「何をか言わんや」である。子供でもこんな馬鹿げた屁理屈は言わないだろう。


ポピー1.JPG
<わが家の愛犬チワワのポピー>




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