私のブログ「社労士雑記帳」の記事の一つに「映画日記」と題したカテゴリーがあります。
1週間ごとに、その週に観た作品に短評を付してデータ化していますが、作品によっては、時たま、テーマが現実の世界で起こっていることと交錯することがあります。
最近の例でいえば、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが共演した『ヒート』が挙げられます。作品の中で、銀行強盗一味と警察との壮絶な銃撃戦が描かれていますが、それを観ていると、アメリカで、つい最近、起こった“銃乱射によるテロ”のことがオーバーラップして、色々と考えさせられてしまいます。
アメリカでは、このような銃撃戦を起こそうと思えば、普通の市民でもスーパーで銃を購入して、簡単に起こすことができる、なんてことは日本の社会では想像もつきません。
「アメリカ合衆国憲法の修正第2条」で「武器を携帯する権利」が認められているということですが、制定されたのは、1791年、“西部劇”の時代よりもさらに何十年も前の時代の話です。そんな時代に決められた約束事が、200年以上も経った現在でも、近代社会を飛び越え、アメリカの現代社会を支配しているということです。
日本のメディアでは、NYタイムズ紙の、銃社会は「不道徳であり国家の恥」とした社説などを紹介していますが、新聞等では表面上は批判的な言説はなく(論評するに値しない野蛮な社会、批判以前の暗黙の常識の問題だ、というようなニュアンスは感じられますが・・・)、次のような、歴史的な経緯を踏まえた客観的な事実を書いただけの記事が大半のようです。
「1791年に制定されたアメリカ合衆国憲法修正第2条には、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」とある。正規軍がなかった当時、武装市民がイギリスから独立を勝ち取った歴史を持つ米国では、今も多くの市民の間で武装による自衛意識が根強く、銃の所有や携帯が認められている。(中略)「市民の権利と自由の拡大」という大義のもと、武装による自衛の伝統が受け継がれ、広がっていく。軍隊があっても、警察組織があっても、市民が日常生活で武装による自衛を必要だと考える社会が、米国なのである。」(WEBRONZA)
しかし、皮肉な見方をして、日本社会と引き比べてみれば、歴代、日本では〈権力者〉による「刀狩り」などにより、武士以外の者(僧侶、百姓、商人等 ー 今でいえば民衆又は市民)が武器を取り上げられ、所有することが許されなかったのに対し、「独立戦争」という市民革命を経たアメリカ社会にはそのような〈権力者〉が現れなかったし、(唯一の権力者である)アメリカ合衆国大統領もそのような行為(銃規制)をすることは、政治システム上、議会との関係でできなかった、ということでしょうか。
また一方、市民革命を経た社会では、銃による武装蜂起 ー 革命などが起こるような社会的な背景もなかったので、治安上も規制する必要もなかったのでしょう。
当時のアメリカ社会では、市民が武装するのは当然の権利ということになるのでしょうが、〈暴力装置〉を国家が独占した〈警察〉というシステムが整備された後も銃規制が行われなかったということの背景には、〈警察〉というシステムの国による相違があるように思います。つまり、アメリカにおける〈警察〉組織というのは、「自警団」の延長として市民が自らを守るために作ったシステムという性格を有しています(FBI(連邦捜査局)などの国家組織もありますが、州組織の場合、映画などにもよく出てきますが、検事や保安官なども選挙で決めるというのは、まさに「民主主義」そのものです。)。
これに対し、日本の場合は、元々、〈権力者〉である“お上”の〈暴力装置〉として「奉行」などというシステムがあり、明治維新後、外国から移入された〈警察〉制度というシステムをそこに代替しただけに過ぎないのですから、国家権力の〈暴力装置〉という本質に変化はありません。
そのような相違点や歴史的な経緯なども踏まえると、“銃規制”については、なかなか判断の難しい問題ですが、まあ、しかし、現代の“アメリカの銃社会”については、「アメリカ合衆国憲法の修正第2条」の「武器を携帯する権利」に基づくものというよりは、「全米ライフル協会」などの「武器製造業者」という巨大な既得権力により維持させられているという要素の方が大きいように思います。