(21.10.30.土) 晴れ
昨日、K大学病院を受診した際に、癌診療部の主治医から、血液検査の腫瘍マーカーの値が高い、と言われたことが、時々、脳裏をよぎる。しかし、確定的な診断は、12月の初めに受ける予定の造影剤CTの結果で判断されるんだと考え、なんとか自分の気持ちを整え、抑えている。
次回の12月の診察の診断結果が、たとえ癌の再発だったとしても、私には「死の恐怖」というものは特にないと思う。ただ、今、自分が見ている世界が消え去る、自分の意識がなくなる、ということがどんなものか想像がつかないことに対する「漠然とした不安」はある。当たり前の話だが、「死」というものは「生きたまま経験※」できることではない。ということは、「人間の行為のなかで、唯一、経験※できない行為が「死」である。」という逆説的な言い方ができるだろう。「死」に対するこの「漠然とした気持ち」は、何かに喩えてみるとすれば、何に喩えられえるんだろうか?少し考えを巡らせてみた。
一つは、日々の「眠り」に近いものかもしれない。だんだんと意識がなくなっていって、やがて意識の世界が閉ざされる 夢を見るということがあるとしても というような感覚に近いのかもしれない。それなら、なんの「不安」もない、むしろ「安らぎ」に近い状態かもしれない。もちろん激しい痛みや、苦しみがある場合は別だが・・・。そういえば「永遠の眠り」という言葉もある。
もう一つは、読書リストのB-36『宇宙を織りなすもの』を読んで得た知識から、「宇宙の極大」や「素粒子の極小」なんていうものに思いを巡らしてみる。
宇宙は、地球から観測可能な距離が「何百億光年」ということなので、遠大な距離だがあくまで「有限」ということになる。だが「その果てはどうなっているんだ」ということを問いだすと、最早、人間の意識では想像することが困難な世界になるだろう。その宇宙の大きさが10cmの30乗としたら、他方の「素粒子の世界」というのは、10cmのマイナス30乗ということで、これも同様に、人間の意識では想像することが困難な世界になる。
この二つの世界の話は、いずれも架空のことではなく、「実在の世界」の話である。したがって、当然、「有限の世界」ということになるが、私たち人間の意識では想像困難な世界と言える。「限りなく無限に近い有限」とでも喩えればいいのだろうか。このような喩えからすれば、「死」というものも「生きたまま経験できない死」や「人間の行為のなかで、唯一、経験できない行為が死である。」というように、人間の意識では想像困難なため、このような逆説的にしか表現できないのかもしれない。
さらに、B-35『生物はなぜ誕生したのか』を読んで得た知識から、次のような考え方もできる。人類の誕生が約20万年前で、文明化したのが約1万年前、これに対して、生命の誕生が約38億年前、多細胞生物の誕生が約28億年前、そして陸上生物の誕生が約5億年前ということだ。これを距離で表すとして、仮に文明化してからの1万年を1cmの尺度とすると、人類の誕生が20cmとなり、生命の誕生が38km、多細胞生物の誕生が28km、そして陸上生物の誕生が5kmとなる。やはり時間単位より空間単位の距離で表した方が、目に見える形になり、イメージしやすい。地球上の生命の誕生が38kmの距離に換算されるとしたら、人類の文明の歴史は僅か1cmしかないとは!これは有限の世界だが、やはり、人間の意識にとっては「想像を絶する」と言い方ができるんじゃないだろうか。
翻って、以上のことを踏まえ、自分の死、人間の「個の死」というものを考えると、「人は〈個〉としては死ぬが〈類〉として生き続ける」ということは、一般的によく言われるが・・・。
ちょっと、尻切れトンボな感じで話が終わってしまうが、このフレーズに関して、最近、何かの本で、「〈個〉としての死は必ずしも〈類〉としての死に通底するわけではない」というようなロジックの記述を読んだ記憶があったので、ここ最近に読んだ本をパラパラと捲ってみたが、当該箇所は見当たらなかった。
※ 経験とは、 実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。 外的現実や内的現実との直接的な接触。 「認識」としてはまだ組織化されていない、事実の直接的な把握。 何事かに直接ぶつかることで、何らかの意味でその人の「自己」を豊かにすること。 何事かに直接触れたりぶつかることで、そこから技能や知識を得ること。( by Wikipedia)
(21.10.31.日) 晴れのち雨
今日、一応、選挙に行ってきた。投票所は近くの区の図書館。膝の具合が思わしくなく、出かけてすぐに膝が痛くなって歩けなくなり、投票所まで行けずに途中で帰ってきた。1時間ほどしてから、雨も降りそうだったので、杖代わりに傘を持って出かけ、今度はなんとか投票所まで行けて、投票を済ませて帰ってきた。
新聞などでニュースになっていたが、比例区での「立憲民主党」と「国民民主党」の略記がともに「民主党」というのは、よくわけが分からん話だ。開票の際には、どのようにして区別するんだろうと疑問に思って調べてみたら、得票数に応じて案分するとのことだが・・・。
【今日の読書175】※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
G-9『失われた時を求めて9』
H-3『パンセT』
I-29『定本 映画術ヒッチコック/トリュフォー』
K-12『創作の極意と掟』
コメント:今日から、主に土曜・日曜日に読むことにしている「K 特定ジャンルのツンドク書籍(現在は小説・物語に関するもの)」は、筒井康隆の『創作の極意と掟』。筒井氏の著作はこれまでも何冊か読んでいると記憶しているが、私には、どちらかといえば、山下洋輔やタモリのお友達ということで馴染みがある。
【今日の映画175】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『断崖』(Amazon Prime Videoで視聴)
製作年:1941年年
製作国:アメリカ
原題:Suspicion
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:ケイリー・グラント/ジョーン・フォンテイン/セドリック・ハードウィック/ナイジェル・ブルース
ストーリー:一目惚れでプレイボーイのジョン(ケイリー・グラント)と結婚した富豪の令嬢リナ(ジョーン・フォンテイン)だったが、結婚後にジョンが一文無しの男だと知り驚き、ずさんな財産管理の仕方や、懸命に毒薬について調べている夫の姿を見て、妻の疑念は日々増していく。その後不審な行動が多くなっていくジョンに対し、リナは恐れを抱くようになる。そして、ある日、家を出ようとした妻を乗せたまま、夫の運転する車は断崖目指して突き進む・・・
この作品もフルレンジのYouTubeの画像(字幕はギリシャ語)があった。ヒッチコックの作品は、トーキー作品でも、無声映画のように、セリフを消して画像だけを観てもスジが分かる言われている それだけ、画像を表現手段として組み立てて創作する映画の本質というものをよく踏まえているんだろう ので、なんとか観れるんじゃないだろうか。
ジョーン・フォンテインが、恋に囚われた女性の“優柔不断”ぶりをうまく演じている。この作品でアカデミー賞主演女優賞を受賞している。
【今日のジャズ175】※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:Standards Vol. 2
アーティスト:Keith Jarrett Standards Trio
レーベル:ECM/ポリドール/ユニバーサル
録音年月日:1983.1.
曲名:Meaning Of The Blues/All The Things You Are/It Never Entered My Mind/The Masquerade Is Over/God Bless The Child
ミュージシャン:Keith Jarrett (p)/Gary Peacock (b)/Jack DeJohnette (ds)
コメント:『ジャズマンはこう聴いた!珠玉のJAZZ名盤100』から抜粋したキース・ジャレット(p)のコメント「このアルバムを吹き込んだ当時は、わたしも含めて多くのグループが自分たちの曲を演奏していた。それがどれもつまらなくつまらなく感じられたんだ。私も曲を作ることに疲れていた。そうした流れの中では、曲がそれほど重要視されず、即興演奏をする上での素材としてしか扱われていないように感じられた。誰もが必死になって新しい曲を追い求めていた。そのことに疑問を覚えたことと、曲そのものの良さを見直したいという思いから、スタンダードをレコーディングすることにした。
スタンダードを演奏することで学んだものはいろいろある。スタンダードの大半はピアノ・トリオやソロ・ピアノのために書かれた曲じゃないから、そのまま演奏してもわたしには面白く思えない。曲の持ち味を生かしながら、いかにトリオで演奏する音楽として納得のいくものにできるのか。そこに想像意欲が刺激されるし、その過程が楽しみでもある。これがわたしには大きい。
ゲイリーもピアノが弾けるし、ジャックはピアニストとして活動していた。それも幸いした。彼らはピアノ・ミュージックがどんなものかよくわかっている。だからリハーサルはしないけれど、コンサートを行う前のサウンド・チェックでわたしたちはいろいろなことを試す。それでうまくいくときもあれば、そうでないときもある。そうやって試行錯誤を積み重ねながら、自分たちのアプローチを完成させていく。
スタンダードを演奏することで、わたしたちはさまざまな方法論も学ぶことができた。メロディが単調な曲もある。それをどうすれば魅力的な演奏にできるか?そういうところからいろいろなことが学べる。ちょっとした変化を加えることで、びっくりするほど面白い曲に変貌することを知ったのもそのひとつだ。こういうことがスタンダードを演奏するときの楽しみでもある。スタンダードにはヴォーカルやホーン向きの曲が多くて、ピアノ向きの曲が少ない。だからやりがいもある。
このトリオは以前に組んでいたチャーリー・ヘイデンとポール・モチアンからなるトリオとの一番の違いは、現在のトリオの方が柔軟性の点で上ということかな。演奏面だけでなく、音楽に対する考え方についてもいえる。だから同じ曲を演奏しても、ときにまったく違うアプローチや進行になることがある。それがわたしのいう柔軟性だ。規則や過去の演奏に縛られないことだよ。
それとこのトリオでは、無意識のうちに全員が同じ方向に演奏を向かわせることができる。わたしがエンディングでファンキーな雰囲気を出したいと考えているときは、彼らも同じだ。一方、チャーリーとポールは非常に個性的なスタイルだった。柔軟性では負けているかもしれないけれど、それぞれが個性的な演奏をしていた点では、いまのトリオを上回っている。」
同じ著書からメンバーのゲイリー・ピーコック(b)のコメント「このレコーディングではリハーサルはやっていない。スタジオに入って、簡単な譜面を見ながらほとんど即興で演奏した。スタンダードを取りあげても、わたしたちにはそれを素直になぞる気は最初からなかった。いってみれば変奏曲のようなものだ。ただし、わたしは意識的に原曲のコード進行をキープするようにした。そうしないと曲のベーシックな部分が失われてしまう。その上でキースには自由に演奏してもらいたかった。ジャックもわたしがキープしていたことで余計なことを考えなくてもよくなったから、このやり方は正解だっと思う。」
同じ著書から元メンバーのチャーリー・ヘイデン(b)のコメント「ゲイリーとジャックのトリオは、わたしがいたときのユニットより自由にスタンダードを演奏している。まるで彼らのオリジナルじゃないかと間違えるほど、曲にぴったり合ったプレイをしているもの。三人の気持ちがここまでひとつになっていると、演奏は瞬時にしてどんな方向へもいける。プレイしているとそうした瞬間がたまにある。わたしがいたときもそれは何度か体験した。でも、この作品では、最初から最後までいつでもその状態になっている。そんなことは奇跡としか思えない。このトリオは奇跡のユニットだ。」