2021年08月22日

逃病日記255(21.8.22.日)

(21.8.21.土) 曇り時々雨
 恒例?の土曜日の朝日新聞の『読書』欄、今日は特に興味をひいた本はなかった。
 夕方、恵文社まで散歩に行って来た。最近は、ほとんど店内を一周するだけですぐに店を出て、帰路の高野側の方に向かうことが多い。今日も、いつもと同じように店内を回っていたが、新刊書の平積みのコーナーで〈意識〉に関する興味を惹かれる本があった。それと、高橋源一郎氏の『ニッポンの小説 百年の孤独』(K-7)で言及されていた古井由吉の著書があったので併せて買うことにした。
 @『意識はどこから生まれてくるのか』マーク・ソームズ(青土社)
 A『書く、読む、生きる』古井由吉(草思社)
 前者の著者は、神経生理学者で精神分析家で、精神分析と神経科学を統合するような臨床・研究手法を発展させて脚光を浴びた、と本書の帯にある。『読書リスト』の「B自然科学関係書籍」のカテゴリーで最終的に極めたい分野の書。
 後者は、古井由吉のエッセイ集だが、「一行も書けなくなるような境地がある。そこにさらされたとき、その奥から何かが見えてくる。」と表紙の表題の横の添書きにある。また帯には、「言葉っていうのは、自分ひとりのものではないんです。今の時代だけのものでもない。大勢の他人の、これまでに亡くなった人も含めた長い長い歴史からできあがったもので、自分の勝手にならないかわりに、自分が追いつめられたときに支えになってくれる」とある。

(21.8.22.日) 曇り時々雨
 今日もイマイチの天気。家でブログ作成と読書ということになりそうな一日。
 朝の『サンデー・モーニング』のスポーツ・コーナーだが、張本氏が、オリンピック女子ボクシングに対する差別的なコメントをして批判されたにもかかわらず、性懲りもなく、出演していた。
 以前から張本氏が、例えば、メジャー・リーグはパワーだけで技術的レベルは低い、といった偏見に満ちたコメントを発することに関しては、放送局も承知の上で、所謂「炎上商法」として放置している、とニュース・サイトで批判されていた。
 このことについては、私も以前、『逃病日記251』で、「以前から『サンモニ』の張本氏の発言は、SNSなどで物議をかもすものが多かったが、TBSとしてはその物議をかもす発言もコミで、「あっぱれ!」や「喝!」と同様に「ウリ」にしていたんだろう。」と指摘しておいた。
 私も、日曜日には、長年この番組にチャンネルを合わせているが、最近はブログを書きながら横目でチョロっと観ている程度で、スポーツ・コーナーの張本氏についても「今日はどんな偏見のあるコメントを言うのやら」というような感じで観ていた。
 まあ、民放では、唯一、客観的な政府批判をするコメンテーターが揃っている番組なので、これからも観続けるだろうが、スポーツ・コーナーの張本氏は、もう、いらんわなぁ。張本氏の後任で、レギラーとして落合元監督あたりが出てくれたら、おもろいやろなぁ。

【今日の読書145※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
G-9『失われた時を求めて9』
H-3『パンセT』
K-7『ニッポンの小説 百年の孤独』
コメント:この土曜・日曜日は、もっぱらK-7『ニッポンの小説 百年の孤独』に限られる。以下に、私がマーカーを引いた箇所を抜粋してあげておく。
p.56-57「小説というものは、熱心に読むことによって、実は、その可能性や豊穣さを失っていくという奇妙な性質を持っている、といいたいのです。なぜなら・・・・・・まず、世界が存在しているからです。あるいは、小説にとっての「外部」が。そして、その世界を、「外部」を読み解くために、小説が存在しているのであって、小説を、あるいはテキストを読むために、世界が存在しているのではない。」
p.122「わたしは、「ニッポン近代文学」の始まりのころの小説を読みながら、よく、どうして、彼らは「恋愛」のことばかり書くのだろう、それから、自分の「内面」のことばかり興味があるようだが、どうかしているんじゃないか、と思っていました。・・・(中略)・・・「恋愛」のような気まぐれなものや、「内面」のような、あるのかないのかはっきりしないものを描くことに熱中した結果、彼らは、ひどく乱雑な書き方をするようになったのかもしれません。」
p.123「「死」というものが描けないとするなら、他の何なら描けるというのでしょうか。「社会」や「私」や「戦争」や「家族」のことなら大丈夫なのでしょうか。」
p.124「あることは考えられるのに、別のあることは考えられない、というのは、信じられないことです。なぜなら、「考える」ということは、そのことに関する知識の多寡とは無関係だからです。」
p.127-128「「他人の死」とは、まず「死体」であり、死体は描写しうるものです。そして、その「他人の死」は、周りの、生き残った人々の混乱を巻き起こします。だとするなら、結局、「他人の死」とは、生き残った人々の、それ以降の問題のことに他なりません。「死」というのはいつも「他人の死」である、という命題は、たぶん正しいのでしょう。つまり、それは逆にいうと、「死」というものを、その内側に入り込んで正確に描くというようなことは、絶対に不可能だということを暗に主張しようとしているのです。」
p.129-130「「死」の経験は、強大な壁の向こう側にあって、その壁を超えて発信される言葉はまだありません。それ故に、文学は、それがもっとも大きな問題であることを知りつつ、あえてそのことを書かず、その部分を完全な空白にして、その周囲を、暗喩や直喩や、その他の聞きかじった言葉を総動員し、それらで埋め尽くすことによって、「死」というものに最大限に接近することができる、と考えたのです。」

【今日の映画145】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『エイジ・オブ・イノセンス(TSUTAYAレンタルビデオで視聴)
製作年:1993年
製作国:アメリカ
原題:The Age of Innocence
監督:マーティン・スコセッシ
出演:ダニエル・デイ・ルイス/ミシェル・ファイファー/ウィノナ・ライダー/ジェラルディン・チャップリン
ストーリー:1870年代初頭のある夕べ、若き弁護士のニューランド・アーチャー(ダニエル・デイ・ルイス)や、その婚約者メイ・ウェランド(ウィノナ・ライダー)と彼女の母親ウェランド夫人(ジェラルディン・チャップリン)をはじめ、ニューヨーク社交界の人々がオペラ会場に集った。ひときわ注目を引いたのは、夫から逃れてヨーロッパから帰国したという噂のエレン・オレンスカ伯爵夫人(ミシェル・ファイファー)だった。ニューランドは幼なじみのエレンの出現に心を揺さぶられた。外聞をはばかるエレンの一族は離婚を思いとどまらせようと、ニューランドを使者に立てる。だが、彼女の率直な態度や考え方に、厳格で欺瞞に満ちた社交界にない新しさを感じた彼は、メイという申し分のない結婚相手がいながら、エレンに惹かれていく。
 しかし、エレンは、次第に社交界から排斥され、2人の愛にも上流階級特有の見えない圧力がかけられる。エレンは一族の願いを聞き入れ、離婚を思いとどまる。それはニューランドを愛するゆえの選択だった。
 ひと月後、ニューランドはメイと結婚するが、結婚生活は退屈な義務だった。エレンへの思いを募らせる夫をメイは許さず、自分の妊娠をエレンに告白して、彼女の思いを打ち砕いた。エレンは帰国し、彼はそれから彼女への思いだけを抱いて生き、30年の月日が流れ・・・
コメント:19世紀末のニューヨークの社交界を舞台に、許されぬ恋に魂を燃やした男女の姿を描いたマーティン・スコセッシ監督による恋愛映画。本作品をレンタルしたのは、蓮實重彦氏が『見るレッスン 映画史特別講義』で取り上げていたからだが、蓮實氏が、本書でスコセッシ監督に関して言及している箇所を抜粋しておく。
 「映画は、そのように、視覚的な表象性を超えて、存在することそのものの「艶」というか「色気」のようなものを、画面にとえることがあるのです。その「色気」というべきものをフィルムに定着できる人とできない人がいる。デヴィッド・ロウリーは存在の色気を画面に収めることができるハリウッドではごく稀な監督なのです。ところが、スコセッシはそれができない。スコセッシの映画では、写っている被写体は映っているものとほとんど変わらないというのが、わたしの彼に対する大きな疑問なのです。彼の場合は、物語が複雑で、それをただ撮っているだけの画面に、被写体がふと何か不意に語りかけるような瞬間がない。・・・(中略)・・・とにかく、存在の気配が含む色気みたいなものをスコセッシはとらえることができていない。その代わり、彼は面白い題材を扱うと、それだけで人を引き付けることはできる。・・・(中略)・・・スコセッシの悪口ばかりをいうつもりはありませんが、どうも彼にはハッとする瞬間、ハッとする画面が描けない。スコセッシで悪くないと思ったのは『エイジ・オブ・イノセンス』。あれはかなり対象に迫っているという感じがしました。あとは本当に物語と題材処理だけです。」と以上、かなり手厳しいコメントだが、本作品だけは、唯一、評価されている。
 本作品の評価は5点満点で、映画.COMは3.1、TSUTAYA(宅配レンタル/動画配信)は3.06/3.4 で、私の評価は3.5と高めにしておいた。人生には、誰しもこのような「すれ違う想い」というようなものを経験したことがあるんじゃないだろうか。

【今日のジャズ145】※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:Scenes In The City
アーティスト:Branford Marsalis
レーベル:Columbia/ソニーレコード/CBS / SONY
録音年月日:1983.4.18/1983.4.19/1983.11.28/1983.11.29
曲名:@No Backstage Pass/AScenes In The City/Solstice/BWaiting For Tain/CNo Sidestepping/DParable
ミュージシャン:Branford Marsalis (ts,vo)/Ron Carter (b)/Marvin "Smitty" Smith (ds)/John Longo (tp)/Robin Eubanks (tb)/Mulgrew Miller (p)/Ray Drummond (b)/Wemdell Pierce (nar)/Jeff Watts  (ds,vo)/Kenny Kirkland (p)/Charnett Moffett (b)/Jeff Watts (ds)/Phil Bowier (b)
コメント:弟のウイントンに遅れること一年、満を持してブランフォード・マルサリスが発表したデビュー作である。同時代の精鋭を中心にしたコンボによって繰り広げられる演奏からは、ジャズの伝統を強く感じると共に、若者らしい現代性も存分に聴き取れる。(『ジャズマンが愛する不朽のJAZZ名盤100』からの抜粋。)
 同じ『ジャズマンが愛する・・・』から、あのコルトレーンの息子ラヴィ・コルトレーン(ts)のコメントを抜粋しておく。「このレコードもそうだけれど、ブランフォードの演奏はいつも僕に何らかの励みを与えてくれる。ジャズが本当の意味で難しい音楽だってわかったのも彼のプレイに接してからだ。ジャズの奥深さっていうのかな。スタンダードをフレイするにしたって、その上でどういう風に個性を出すか、それを実際の形で教えてくれたのがブランフォードだった。それ以前は、僕にとってジャズはそれほど現実的な音楽ではなかった。自分が本気でやるとは思っていなかったのさ。
 ぼくはクラリネットからサックスに転向したけれど、家で聞く音楽といったらジェームス・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなんかだった。それがぼくの世代なら自然の成りゆきだ。ジャズはもっと別の世界の音楽で、天才と呼ばれる人たちがやるものと思っていた。ところがあるパーティでウイントン・マルサリスの演奏を聴いたんだ。それからだよ、ジャズが身近に思えてきたのは。ブランフォード・マルサリスのプレイを聴くと、彼も天才的なプレイをしているけれど、これなら自分でもなんとかできるんじゃないかと思えた。ウイントンにしてもブランフォードにしても、その後に続くぼくのようなミュージシャンにとって格好のロール・モデルなんだ。いい意味での目標であり、彼らと違った個性を出そうと考えさせてくれる存在にもなり得る。最初はぼくもブランフォードみたいになりたいと思ったけれど、いまでは逆に距離を置くようになってきた。彼らはそういう存在だ。」

posted by ポピー at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 逃病日記
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