2021年09月29日

逃病日記271(21.9.29.水)

(21.9.27.月) 晴れ
 今日は快晴だったので、高野川ウォーキングに出かけた。今日も先週の金曜日と同様、出町柳の河合橋で高野川東岸から西岸に渡って帰ってきた。同じ岸側を往復するより、気分も変わって楽しいもんだ。
 東岸は川端通りに接しているが、西岸の道は堤が住居と接しているため、自転車の往来があまりないので歩きやすい。また、住居と接しているので、バラやコスモスなどを植えているところなどもあって、目を楽しませてくれる。特に今年は、コスモスがいつも植っている範囲を超えて自生したように広がっていて、通りすがりに写真を撮っている人も多い。私も、撮るか撮るまいか逡巡していたが、結局、行き過ぎてしまった。次回にでも、写真を撮って、またブログにアップしよう。

(21.9.28.火) 晴れ
 今日は、昼からヨメさんがエル・スポーツのスイミング・スクールに行ったので、「鬼の居ぬ間に洗濯」というわけではないが、テレビに録画してある洋画を見ていた。
 今日、観た作品は、ジョージ・クルーニーとジュリア・ロバーツが共演の『マネーモンスター』で、なかなか面白い作品だった。
 結局、今日は、外出することもなく、いつものように、通販で買ったロッキング・チェアー(ソファー)で読書三昧というところ。

(21.9.29.水) 晴れ
 今日は、午前中、ヨメさんをクルマで京阪三条駅前にある血管外科医院に送って行くことになっていた。ただ、その前に、車のガソリンの警告ランプが点いていたので、近くのガソリンスタンドでガソリンを入れてきた。ハイオクなのでほぼ満タンで1万円近くになる。リッター5kmくらいしかないが、週1回数キロ程度しか乗らないので、まあ、なんとかやっていける。
 10時半頃に家を出て、途中、川端丸田町の渡独中の娘の留守宅に寄って、溜まっている郵便物をとってから、医院に向かった。ヨメさんを送り届けてから、帰路は、また、川端通りを通って帰った。
 昼からは、今度は私の方が、2週間に1回のヒアルロン注射を打ってもらいに行ってきた。「保存療法」と言うことで、日々の感覚では「良くもなく悪くもなく」という感じだが、一年ぐらいの長いスパンでみると、間違いなく悪化してきているように思う。適当なタイミングで、変形性関節炎と脊柱管狭窄症の両方とも手術を前提にしたK大病院への紹介を依頼しようと思っている。今日は1時間くらい経ってから名前を呼ばれた。保存療法とは言え、先生の対応もいつもと一緒で、なんか、先生との会話もマンネリ気味の感じなので、そろそろ替え時かなぁ?10月末の脳MRIの結果がひとつのきっかけになるだろう。

【今日の読書161※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
A-32『貨幣論』
B-35『生物はなぜ誕生したのか』
B-36『宇宙を織りなすもの 下』
D-7『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』
E-16『成城だよりU』
F-58『誕生日の子どもたち』
F-59『国境の南、太陽の西』
G-9『失われた時を求めて9』
H-3『パンセT』
コメント:だいぶ時間がかかったが、A-32『貨幣論』をやっと読み終えた。
 これで、ちくま学芸文庫に入っている岩井克人の著作5冊をすべて読み終えたことになる。5冊の中では、この最後の『貨幣論』が一番読み応えがあった。
 しかし、ちょうど配本のあった『吉本隆明全集』で、吉本隆明氏は、この岩井克人氏の『貨幣論』を「この半分以上は日本のインテリにしか向かない啓蒙書」と切り捨て「それ以外の場所では通用するとは思えない」としている。続けて、論拠を示して本書について論じているが、吉本氏は、マルクスが『資本論』の中で「物(商品)を比べるときに、ある物(商品)Aが「相対的価値形態」になり、他の物(商品)Bが「等価形態」になる」としているが、このことに関して「なぜこんな呼び方をするか」と疑問を呈している。逆にすれば「Bが「相対的価値形態」になりAが「等価形態」になる」ので同じじゃないか述べ、しかし、この疑問こそが重要なのだとしている。そして岩井克人が、「「相対的価値形態」と「等価形態」の役割を交互に無限にくりかえせる」ものとしている点に本書の第一のキイ・ポイントがあるとし指摘し、「貨幣の本性は何かを言おうとすれば、「相対的価値形態」と「等価形態」のあいだで「循環論」的に振舞うことではなく、貨幣が可変な形態をもつ時間体だということにある」とし、「岩井の論議をいくらくりかえしても貨幣の本性は浮かび上がってこないで、貨幣の機能的な解釈しか出てこない」としている。

【今日の映画161】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『暗殺者の家(Amazon Prime Videoで視聴)
製作年:1934年
製作国:イギリス
原題:The Man Who Knew Too Much 
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:レスリー・バンクス/ピーター・ローレ/エドナ・ベスト/ノバ・ピルブーム
ストーリー:娘ベティ(ノバ・ピルブーム)と一緒にスイスに遊びに来たボブ(レスリー・バンクス)とジル(エドナ・ベスト)のローレンス夫妻。ルイという男と親しくなり、一緒に舞踏会に参加するが、そこでルイが何者かに射たれてしまった。ルイはボブに英国領事に届けてほしいものがあると言い残して息絶える。ルイの部屋を探すと、国際的暗殺組織の陰謀について書かれたメモを発見。しかし敵は娘ベティを誘拐し、知っていることを誰にも話すなと脅迫する。イギリスに戻ったローレンス夫妻は娘を取り戻すため奔走するが・・・
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは3.5、TSUTAYAは2.84、Filmarksは3.4で、私の評価は3.0とした。
 なんせ、映像があまりにも悪いので集中して観る気が削がれてしまう。観た後で、YouTubeでリンクする映像を探していたらフル・レンジのものが 見つかった。日本語字幕はないが、画像はこちらの方がAmazon Prime VideoやU-NEXTで配信されている作品よりきれいだったので、これをリンクしておいた。古い作品なので著作権法上も問題はないだろう。なお、本作品は『知りすぎていた男』として、ハリウッドでヒッチコック自身によってリメイクされている。

【今日のジャズ161】※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:Spiritual Unity
アーティスト:Albert Ayler Trio
レーベル:ESP/キングインターナショナル
録音年月日:1964.7.
曲名:@Ghosts : First Variation/AThe Wizard/BSpirits/CGhosts : Second Variation/DVariations
ミュージシャン:Albert Ayler (ts)/Gary Peacock (b)/Sunny Murray (per)
コメント:フリー・ジャズが猛威を振るっていた1960年代半ば、もっとも激烈な演奏を繰り広げていたのがアルバート・アイラーだ。これはその彼が残した最高作で、ゲーリー・ピーコックにサニー・マレーのトリオでひたすら触発的なブローを重ねてみせる。暴力的ともいえる力づくの演奏でありながらハート・ウォームに響くソロは、いまも多くの人に感動を与えている。『ジャズマンはこう聴いた!珠玉のJAZZ名盤100』
 同書から引用したジョシュア・レッドマン(ts)のコメント「アルバートのプレイはアヴァンギャルド派の中でもかなり特徴的だ。ヴィブラートを用いたフレーズが持続することで高いテンションが保たれている。コルトレーンの《シーツ・オブ・サウンド》をもっと大胆にしてみせたとでもいえばいいかな?この奏法を試してみるとわかるが、すごく肺活量が必要なんだ。それを彼は長時間続けられるんだからすごい。」
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2021年09月26日

逃病日記270(21.9.26.日)

(21.9.25.土) 晴れ時々曇り
 今日は、朝10時頃からはメジャー・リーグの大谷選手を見て、午後2時からは巨人×阪神戦を観戦していた。
 巨人×阪神戦の高橋投手が、スゴイねぇ。まあ、江夏投手とまではいかないが、井川投手くらいのレベルに達しているんじゃないだろうか。これから怪我なく、成長していって欲しい。
 阪神は能力のある将来有望な選手  藤浪投手、新人王を取った高山選手、そして佐藤選手等々  の育成がヘタクソで、能力を伸ばすことなく選手を潰しかねない。要因の第一は、現役当時は二流、三流レベルでしかなかった選手しかコーチにできていないことだろう。佐藤選手もこのままの状態が続けば潰されかねない。掛布氏や岡田元監督レベルのひとが指導しないとダメだろうな。矢野監督と井上バッティング・コーチ、「自分の手でレギラーを獲得しろ!」なんてアホみたいなことを言うてんと、ちゃんと指導したれよ、ほんま。

(21.9.26.日) 曇りのち雨
 今日も昨日と同様、午前中は10時からNHK-BSでメジャー・リーグ中継を観て、午後からはBS日テレで阪神×巨人戦を観戦していた。大谷選手は三塁打二本で、徐々に当たりを取り戻してきている感じで、明日はピッチャーとしても先発らしいが、明日くらいにホームランが出るんじゃないか。
 一方、阪神タイガースの方も、まさかの巨人相手に2勝1分けなんて、出来すぎだわな。こんな局面では、いつもコケていたのに、今年は本物なんかな?しかし、巨人よりむしろヤクルトが強すぎる感じで、こちらの方が難敵という感じだな。

【今日の読書160※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
D-7『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』
G-9『失われた時を求めて9』
H-3『パンセT』
K-8『小説の読み方・書き方・訳し方』
コメント:K-8『小説の読み方・書き方・訳し方』を読み終えた。以下は、私がマーカーを引いた箇所を抜粋したもの。
p.8「ある容器の破片をぴたりと組み合わせて繋ぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのでなければならない。」
p.9「「原作」や「翻訳」は実在するけど、「ひとつのより大きい言語」は、「原作」や「翻訳」が実在するようには、実在していないのだ。いや「実在」はしているけれど、その「実在」の仕方が、違うのだ。比喩の形でしか説明できないものこの世にはあるのではないだろうか。」
p.15「「読む」ということは、字で書いてあることを認識して、意味に変換して理解する、「書く」ということは意味があることを字で書く、「翻訳」するというのは、ある言語を等量の意味を持つある別の言語に換えるということです。」
p.16「訳せなくても読めるけれど読まないと訳せないから、やっぱり「読む」という行為がまずあって、それに別の言語に変換するというエクストラの作業を加えると「訳す」という行為ができると考えるのが一般的でしょう。」
p.19「詩が書けないっていうのは、「自分の中にあるコード」、つまり何か決まりのようなものが邪魔するんですね。」
p.20-21「いろいろなことに取り組んでいくのは、まだ自分が成長できると思っているからなんですね。そのためにはいろんなことを並行してやる方がいいんだっていう気がする。」
p.24「言葉に対しての関係が「無」になっていて、それは翻訳の場合にもいわゆる「書く」ということにも同じ部分があるのではないかという気がするんですよ。通常は主体があって読む、主体があって書く、というように主体が、ある言葉とリンクするんだけれども、現場へ降りてみると、主体として読む・書く・翻訳するみたいなものに対する抵抗があるひとがいるんじゃないかなと思うんでうす。通常は「読む」と「翻訳する」がペアで、「書く」は別、っていうことなんですけど、主体への抵抗という気分で考えると、その三つは結びついちゃうんじゃないかっていう気がするんですよ。」
p.25「語学の勉強って、語学のことを考えなくていいためにするものだと思います。書くのと訳すのと、形としてパラレルなことはいっぱいあると思うんですが、やっぱりテキストはそこにいてくれて、まさに固体なんですね。だけど作品を一から描くというのは本当にそこにあるかないかわからない気体みたいなものととらえることなので、誰にでもできることではないと思います。でもかりにもし、それが固体ではなく気体として誰のまわりにもあって、それになぜかコピーガードみたいなものがかかっていてできなくなっているのだとすれば、それを解けば実は誰でも書けるということになる。」
p.25-26「誰でも「ここは触れちゃあいけないよ」っていう自分の中にあるタブー、つまり自分用のコードを持って我々は生きているわけで、これってふだんはほとんど自覚していないんです。でもそれがある局面で出てきて「これは絶対ダメ」とか意味もなく拒否することってあるんじゃないでしょうか。僕は人間は言葉でできていると思うのですが、そうはいっても、僕たちはそんなに仲よく言葉と親和性を持って生きているわけではなくて、やっぱりどこかで離して、言葉が他者に見えるという局面は誰にでもあるわけです。それとつきあいながらよんだりかいたりするわけですよね。」
p.26「自分の中で言葉と共存できる範囲は人によって違うだろうと思うんです。だからフィクションを書くということが自分の中で、言葉と共存するあるテリトリーの中でOKになっているか、禁止になているかは人によって異なっていて、それがどうしても他人がやることに思えることがあるんじゃないないでしょうか。だから僕の中では、小説を書くということはまったく問題のないことなんですけれども、詩を書くというのは他人がやることなんですよ。そういう言葉って通常の意識、われわれが生きている日常生活とは違うところから出てくるので、きっとそこは抵抗しているんですよね。」

【今日の映画160】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『マクリントック(NHK-BS プレミアム・シネマ録画で視聴)
製作年:1963年
製作国:アメリカ
原題:McLINTOCK!
監督:アンドリュー・V・マクラグレン
出演:ジョン・ウェイン/モーリン・オハラ/イボンヌ・デ・カー/パトリック・ウェイン/ステファニー・パワーズ
ストーリー:富豪で、地域の人望もあるマクリントック(ジョン・ウェイン)は、妻キャサリン(モーリン・オハラ)に不貞を疑われ、家出されてしまっていた。ある日、妻が町に帰って来て離婚協諾書にサインをすることを迫ったが、その上、牧童に雇った男の母親ルイス(イボンヌ・D・カルロ)の美しさに憑かれ、コックとして雇い入れたため、夫人は大憤激。折りも折り、東部の大学に留学中のベッキー(ステファニー・パワーズ)が帰って来た。その同じ汽車でマクリントックの敷地で待っていたインディアンたちの指導者たちも降りたったが、州当局は退去を命じ、それに肯じなかったため、マクリントックの尽力にもかかわらず強制収容されてしまった。恒例の独立記念日で町中が浮かれているとき、突然、無実なのに疑いをかけられて憤慨したインディアンが仲間を救おうと刑務所を爆破し・・・
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは2.9、TSUTAYAは2.45、Filmarksは3.0、私の評価は2.5とした。
 まあ、特にどうということのない、コメディ・タッチの西部劇だが、ジョン・ウェインの息子のパトリック・ウェインが、“親の七光”なんだろうが、意外と好印象だった。

【今日のジャズ160】※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:Al And Zoot
アーティスト:Al Cohn Quartet Featuring Zoot Sims
レーベル:Coral/MCAビクター
録音年月日:1957.3.27
曲名:@It's A Wonderful World/ABrandy And Beer/BTwo Funky People/CChasing The Blues/DHalley's Comet/EYou're A Lucky Guy/FThe Wailing Boat/GJust You Just Me
ミュージシャン:Al Cohn (ts,cl)/Zoot Sims (ts,cl)/Mose Allison (p)/Teddy Kotick (b)/Nick Stabulas (ds)
コメント:白人スウィング・モダン派テナーの最高峰による初期の傑作。レスター・ヤングに強い影響を受けているだけあって、どちらがどちらかわからないようなデュエットを繰り広げる。ふくよかな音色と落ち着いたたたずまい。モダン・ジャズの醍醐味を存分に堪能させてくれるテナー・チームのパフォーマンスは、聴けば聴くほど味わいが深くなる。『ジャズマンはこう聴いた!珠玉のJAZZ名盤100』
 ほんとうに、どちらがどちらかわからないようなテナーのユニゾンのようなデュエットで、ひとりで演奏して録音し、あとで重ね合わしたような感じだ。

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2021年09月24日

逃病日記269(21.9.24.金)

(21.9.23.木) 晴れ
 いい天気が続く。今日は、「秋分の日」で世の中はお休みの日。
 当方は、現在は年中休みの状態なので、普段と特に変わりはないんだが、快晴で、高野川の河原は人出が多いだろうと思って、高野川ウォーキングは取りやめることにした。

(21.9.24.金) 晴れ
 今日も快晴!昨日は、高野川ウォーキングを取りやめたが、今日は出かけることにした。
 最近は、出町柳で折り返して同じ高野川東岸をウォーキングしているが、今日は快調だったので、出町柳で河合橋を渡って西岸から帰ることにした。多少なりとも風景が変わるので気分も変わる気がする。東岸は川端通に沿っているので、結構、自転車も通行していて走りにくいんだが、西岸はコスモスなんかも咲いていて、自転車も少ないのでウォーキングや犬の散歩なんかをしている人も多いように思う。高野橋西詰で河原を上がり、高野橋を渡って再び東岸の河原に降りる。そこから少し行くと腹筋体操用ベンチがあって、いつもはそこでクール・ダウンして、ウォーキングを終えるんだが、今日はオッサンが腹筋体操用ベンチに腰掛けて缶ビールを飲んどったんで、いつもの腹筋30回ができなかった。

【今日の読書159※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
A-32『貨幣論』
B-35『生物はなぜ誕生したのか』
B-36『宇宙を織りなすもの 下』
D-7『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』
E-16『成城だよりU』
F-58『誕生日の子どもたち』
F-59『国境の南、太陽の西』
G-9『失われた時を求めて9』
H-3『パンセT』
K-8『小説の読み方・書き方・訳し方』
コメント:F-58『誕生日の子どもたち』は、T.カポーティの短編集で村上春樹氏の翻訳によるもの。「誕生日の子どもたち」「感謝祭の客」「クリスマスの思い出」「あるクリスマス」と読み進めてきた。
 村上春樹氏の「訳者あとがき」には、本作品に収められた「六遍の短編小説は、それぞれに少年少女の無垢さ=イノセンスをテーマにして書かれた物語である」とある。これらの世界のほとんどは、すでに『遠い声、遠い部屋』で見てきたものだ。「少年の目」が何を見て、成長してからそれらのうちの何が記憶に留まっているか、そしてその留まっている記憶のうちから何を「書き言葉」として文章化するのかということこそが、その作家の〈個性〉というものだが、その〈個性〉がどれだけ多くの人々と通じる「個性=特殊性」であるかにより、〈普遍性〉として評価されることになるんだろう。そして、それらは「感性=文学」であったり「理性=思想」あったりするんだろう。
 F-59『国境の南、太陽の西』は、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読み終え、そのあとの長編小説ということだが、まあ、長編というより中編という感じだどろう。
 吉本隆明氏はこの作品について、『吉本隆明講演集12』の中で、「この作品を見ると、やはりたいへん健全な感覚で、健全な世界が描かれていて、もっと違う言い方をすると、村上さんが自分の世界、自分の小説世界の中で、一般に八割九分の人たちが気持ちがいい、快いと思ってくれる部分を、自分で意識して、その部分を拡大してつくった作品」としている。「まったく健全な感覚と、健全な描写と、申し分のない愛情物語で、どこにも欠陥もないし、病的なところも何もないというわけで、この作品も心地よい作品」としているが、「その心地よさには一種のうさんくささが伴う」としている。そして「気持ちのよさが一種の気持ちの悪さにつながる」とし、「村上さんくらいだったら、この手の小説は書いてもらいたくない。書いてもらうならば、この手の小説のどこかに不服な部分に対して、口を開いているというか、展望・展開を与えるところがどこかにあるような作品として描かれて然るべき」ではないかと続け、「そこが物足りないと言えば物足りない部分」になってきていると述べている。
 そして、「日本の現在の顔が見えない読者をどうやってつかもうか、どう考えたらいいんだという場合に、それがとても怖いのだと思います。ですから非常につっかえ棒になるような作品というのを、一方で書いてしまう」とし、「非常にわかりがいいところでわからせるような作品というのに狙いを定めて」書くというようなことをしてしまうのだろうと述べている。吉本氏はそれを〈通俗性〉と呼び、漱石の『ぼっちゃん』や『虞美人草』などがもっている〈通俗性〉には、「文学というものがもとをただせばこういうところから始まったんだよなというような」そういう「初々しさ」があるとし、現代文学との〈通俗性〉と区別している。

【今日の映画159】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『続・激突!カージャック(U-NEXTで視聴)
製作年:1973年
製作国:アメリカ
原題:The Sugarland Express
監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:ゴールディ・ホーン/ベン・ジョンソン/マイケル・サックス/ウィリアム・アザートン
ストーリー:テキサス州立刑務所で服役中のクロービス・ポプリン(ウィリアム・アザートン)のもとに、女房のルー・ジーン(ゴールディー・ホーン)が面会にやってきた。親の資格なしとして彼ら夫婦から裁判所命令で取り上げられていた1人息子の赤ん坊ラングストンが、福祉協会を通じて養子にだされてしまうとのこと。ルー・ジーンに泣きつかれたクロービス仕方なく、面会人にまぎれ込んで脱獄。老人が運転するポンコツ車に乗り込んだが、そのノロノロ運転はたちまちマックスウェル・スライド巡査(マイケル・サックス)の運転するパトカーの眼にとまるところとなった。このパトカーに気づいたクロービスとルー・ジーンはてっきり脱獄がバレたものと早合点。老人からハンドルを取りあげて必死の逃亡をはかるが、ポンコツ車はたちまち音をあげて道路わきの立樹に衝突してしまう。怪我人はいないかと、パトカーから降りてきたスライドを見て、ルー・ジーンはピストルを取り上げ、赤ん坊が保護されているシュガーランドまで自分たちを連れてゆけと脅迫してパトカーに乗り込んだ。警官1人及びパトカー1台がハイジャックされたことを知ったハイウェイ・パトロール本部は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、道路封鎖、検問所の設置を開始した。そして走り廻るパトカーの跡を新聞社の車や野次馬の車が追いかける。パトロール本部では、隊長のタナー警部(ベン・ジョンソン)が自ら陣頭指揮を取って盗まれたパトカーを追いつめるが・・・
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは3.1、TSUTAYAは3.21、Filmarksは3.6、私の評価は3.0とした。
 若い男女がおもいがけない事のなりゆきで罪を犯し、警察に追跡されながらテキサス周辺300マイルにおよぶ逃避行をやってのけたという1969年に実際に起きた事件を素材にしたアクション。監督は「激突!」のスティーヴン・スピルバーグ。
 日本では、あたかも1971年に制作された『激突!』の続編を思わせるように、『続・激突! カージャック』とタイトルを変えて公開されたが、本作品と『激突!』には何の関連もない。『激突!』はある意味で時代を画した名作といえるが、本作品は『激突!』と関連がないだけではなく、レベルとしてもスピルバーグらしからぬ駄作と言っていいんではないか(まあ、初めての作った劇場映画だからそれほど厳しくいうこともないが・・・)。

【今日のジャズ159】※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:Modern Art
アーティスト:Art Pepper
レーベル:Aladdin/東芝EMI/EMIミュージック/Intro
録音年月日:1956.12.28/1957.1.14/1957.4.1
曲名:@Blues In/ABewitched/BWhen You're Smiling/CCool Bunny/DDiane's Dilemma/EStompin' At The Savoy/FWhat Is This Thing Called Love/GBlues Out
ミュージシャン:Art Pepper (as)/Russ Freeman (p)/Ben Tucker (b)/Chuck Flores (ds)/Art Pepper (as)/Carl Perkings (p)/Ben Tucker (b)/Chuck Flores (ds)
コメント:全楽曲が5分前後の長さの、小説でいえば「短編集」といった趣のアルバム。ゆったりとしたリズム・セクションに支えられて、無理のない軽やかなアドリブを披露している。下記のレッド・ガーランドのコメントにもあるように、チャーリー・パーカーに通ずる天才性が垣間見える感じ。
 『ジャズマンはこう聴いた!珠玉のJAZZ名盤100』から、マイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーで、『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』で共演したこともあるレッド・ガーランド(p)と、フリー・ジャズの始祖オーネット・コールマン(as)のコメントを抜粋しておく。
 レッド・ガーランドのコメント「マイルス・デイヴィスのクインテットで西海岸をツアーしたときに、クインテットのリズムセクションがアートのレコーディングに起用された。それがコンテンポラリーからリリースされた『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』だ。それとほぼ同じ時期にこのアルバムも吹き込まれたんだってね。三週間前だって?なるほど。レコーディングしたときこのアルバムでのアートのイメージが重なっているんだけれど、これで理由がわかった。わたしたちが共演したときのアートはかなり消耗している感じだったがプレイは素晴らしかった。仲間うちで彼が麻薬をやっていることは有名だったから、その日もそういうことだったんだろう。しかしプレイは本物だ。共演すれば、そのアーティストが天才かどうかはすぐにわかる。わたしはマイルスと共演していたから、素晴らしいミュージシャンには敏感だった。スタジオで彼が発した音を耳にして、これは本物だってわかった。そうなれば言葉のコミュニケーションなんて必要ない。音楽で会話をすればいいからだ。このアルバムのピアニストはラス・フリーマンだね。ラスも楽器で会話していることがよくわかる。彼のバッキングを聴けば明らかだ。会話が弾んでいるもの。こいうときは、レコーディングしていてもあっという間に時間がすぎる。わたしたちのときもそうだった。三時間くらいのセッションが一時間くらいにしか感じられなかった。あともうひとつ、アートのプレイはチャーリー・パーカーに似ている。思いもよらない音で演奏が始まるじゃないか。こんなことをしているのはパーカーとアートぐらいのものだよ。」
 オーネット・コールマンのコメント「1950年代前半のことだ。故郷のテキサスからロスに移ってすぐだった。素晴らしいアルト・サックス奏者に出会った。アート・ペッパーだよ。彼は誰の真似でもない自分のスタイルでサックスを吹いていた。肺活量がひとなみ外れているのだろう。ひとつのフレーズが長くて、その中でいろいろなことを試していいた。16小節くらいはいっきに吹いてしまうんだが、その間、小節や譜割に関係なく自在に音を連ねていく。それがとても新鮮に聴こえた。わたしも従来の慣習から離れて独自の演奏をしたいと思っていたから、そのやりかたを取り入れて、自分なりの息継ぎを工夫するようにした。アートから学んだもうひとつのことは、自由なリズム感覚だった。自由な息継ぎをすることとリズミックに演奏することはセットになっている。ふたつが組み合わさることで、一層自由な演奏ができる。そのためには練習が必要だ。勝手にプレイするのと自由にサックスを吹くのとではまったく違うからね。あのころは、仕事が滅多になかった代わりに練習する時間はたっぷりあった。同じフレーズをさまざまなリズムで演奏してみたり、まったく違う息継ぎで長いフレーズを吹いていたりすることによって、わたしは独自のスタイルを完成させていった。アートのプレイはそれほど熱心に聴いていたわけじゃない。それでもわたしにはわかる。彼がいかにオリジナリティを大切にするミュージシャンだったかということはね。」

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