(21.8.28.土) 晴れ
今日の朝日新聞『読書』欄で気がひかれた本は次のとおりだった。
@『きみが死んだあとで』代島治彦(晶文社)
A『暁の宇品』堀川恵子(講談社)
上記の@は、1967年10月8日、ベトナム反戦のデモと機動隊が衝突し、一人の学生が犠牲となる。18歳の「きみ」、山崎博昭君の死は、同世代の多くを闘に駆り立てた。以来半世紀余り、かつての若者は「きみ」の記憶を抱いて、どんな人生を送ったのか。遺族や友人・先輩などへの聴き取りの証言を集めたもの。
Aは、かつて陸軍船舶司令部が置かれ軍事の要諦である兵站を担った広島市の「宇品」舞台にした戦前の軍部にまつわるノンフィクションだが、正直なところ、何よりも、記事に掲載されているも著者堀川恵子さんのキリッとしてチャーミングな顔立ちに惹かれた。
(21.8.29.日) 晴れ
今日は、朝から、ヨメさんの機嫌があまり良くない。「腰が痛い」とか「指が痛いとか」、それにこの暑さが加わって、また、洗濯で洗い物の衣類が多いとか、ここで私が一言発すると、また気まずい雰囲気になるので、まあ、何も言わずに黙っていることにしよう。
しかし、結局、夕方、爆発した・・・
【今日の読書148】※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字
G-9『失われた時を求めて9』
H-3『パンセT』
I-28『映画評論家への逆襲』
K-7『ニッポンの小説 百年の孤独』
コメント:引き続き、土曜・日曜日に限って読んでいるK-7『ニッポンの小説 百年の孤独』から、印象に残ってマーカーを引いたフレーズを抜粋して上げておく。
p.131「これまでの現代詩は「時代という愛情」に包まれていた。戦争があり、闘争があった。政治の季節には政治があった。意見の合わない旧世代があった。まわりにはいつも壁があった。言葉を出していれば、それが詩でないものでも、あまりしっかりとは書かないものでも、時代のあとおしで詩になった。詩を支えるものが自動的にはたらいたのである。詩をとりまく愛情は分厚いものだった。そのためにために詩とは何であるか。それを考えなくてもすんだのである。いまは時代も、たたかう相手も鮮明ではない。読者もいない。何もなくなったのだ。こんなとき、詩は何をするものなのだろうか。そもそも詩は、何をするものなのだろうか。詩の根本が問われているのだ。だとしたら、ここからほんとうの詩の歴史が始まるのかもしれない。」
p131-132「小説もまた「時代という愛情」に包まれていたし、まわりにはいつも壁があって、言葉を出していれば、あまりしっかりとは書かないものでも、「時代のあとおし」で小説になったのです。しかし、そんな「時代」はもう去りました。・・・・・・「時代のあとおし」とは風のようなものです。・・・・・・しかし、私たちのいるここには、この場所には、機体を空高く持ち上げるほどの風は、もう吹いてはいないのです。だが、「何もなくなった」いまこそ、「こんなとき、小説は何をするものなのだろうか」と、「そもそも、小説は何をするものなのだろうか」と、考えるべきではないのでしょうか。なぜなら、「ここからほんとうの小説の歴史がはじまるのかもしれない」のですから。」
p.140「あるものを、重要な何かとして描くには、どうすればいいのかというと、それが、たいしたものにあるかのように見せればいいということになるのです。それは、ほとんど描かない、というやり方によっても可能ですし、徹底して描くというやり方によっても可能です。それらの二つのやり方は、正反対に見えますが、なにかをたいしたものに見せようという意図において、まったく相等しいのです。」
p.145「画家たちは、絵というものが、なにかのテーマを表現しているというより、なにより、単なる色の滲みや、線の寄せ集めであることをよく知っています。そのことを利用して、我々を錯覚させようとしているのです。不思議なのは、言語芸術でも、まったく同じことが行われているのに、そのことに、ふだん我々がなかなか気づかないことです。しかし、真に驚くべきなのは、そのことではありません。それが、絵画であり、音楽であれ、およそ表現というものは、ある種の錯覚を利用して成立しています。問題は、言語芸術では、その錯覚に、作家の方もまるで気づかないことがあるということです。」
p.146「言語芸術という、このジャンルだけは、なぜか「素材」や「道具」について無関心な、あるいは、無関心に見える作り手が数多く存在しているのです。それはもちろん、なにより、まず、人間というものは誰でも言語に精通している、という誤解があり、それに加えて、作家というものは、人間なら誰でも精通している言語というものを、より精妙に扱うことができる人間に違いない、という二重の誤解のせいなのです。」
【今日の映画148】※データは『映画.COM』のサイト等から入手
邦題:『ハムレット ゴース ビジネス』(TSUTAYAレンタルビデオで視聴)
製作年:1987年
製作国:フィンランド
原題:Hamlet Goes Business
監督:アキ・カウリスマキ
出演:ピルッカ・ペッカ・ペテリウス/カティ・オウティネン/エスコ・サルミネン/エスコ・ニッカリ
ストーリー:巨大企業の会社の重役で社長の弟であるクラウス(エスコ・サルミネン)は、兄を殺害して社長の座を乗っ取ろうと画策している。兄の妻とも愛人関係にあるクラウスは、彼女には目論見を隠したまま、兄が使うグラスを毒薬入りの物とすり替えて殺した。机に伏せた社長の姿を見た息子ハムレット(ピルッカ・ペッカ・ペテリウス)は、何かを知っているのか、グラスに残った毒を拭き取った。社長の死の早々、クラウスは同じく重役のポロニウス(エスコ・ニッカリ)と結託する。会社の株51%を所有するハムレットが頼りないボンボン息子だと見立てる2人は、彼にポロニウスの娘オフェリア(カティ・オウティネン)との縁談を持ち掛け、恋にうつつを抜かさせようと企んだが・・・
コメント:評価は5点満点で、映画.COMは2.7、TSUTAYAは3.48、Filmarksは3.6で、私の評価は3.0とした。
シェイクスピアの戯曲「ハムレット」を題材に、現代社会における企業乗っ取りをサスペンスタッチで描いたブラック・コメディ。フィンランドの鬼才アキ・カウリスマキが製作・監督・脚本をつとめる。
以前も、TSUTAYA宅配レンタルでアキ・カウリスマキ監督の作品を何作か観たが、本作品でオフェリア役を務めるカティ・オウティネンが何作かに出演していたように記憶している。個性的な顔立ちだだが、アキ・カウリスマ監督作品というと、この女優さんがかなり目立っている印象がある。
本作品はモノクロだが、主役のハムレット役のピルッカ・ペッカ・ペテリウスの主役らしからぬ風貌や、ツッコミどころ満載の細部のリアリティのなさなど、ハリウッド映画とは明らかに異なる印象で、変に記憶に残る感じがする。
【今日のジャズ148】※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手
タイトル:Ballads
アーティスト:Paul Bley
レーベル:ECM
録音年月日:1967.3.31/1967.7.28
曲名:@Ending/ACircles/BSo Hard It Hurts
ミュージシャン:Paul Bley (p)/Gary Peacock (b)/Mark Levinson (b)/Barry Altschul (ds)
コメント:フリージャズの手法を用いて大胆なプレイを繰り広げていた時代にポール・ブレイが残した抒情的な作品。とはいっても、アヴァンギャルドなスタイルが薄れているわけではない。ベーシストが交代しただけで、これほど響きが違うものになるのかと驚かされる二つのトリオが織りなす奔放なサウンド。全三曲がアーネスト・ピーコック(ゲイリー・ピーコックの妻)の作品である点も功を奏した。(『ジャズマンが愛する不朽のJAZZ名盤100』からの抜粋。)
上記に書かれている二人のベーシストのうち、ゲイリー・ピーコックがベースを弾いているのが、一曲目の「エンディング」という作品。他の曲よりこちらの方の曲の方がスリリングな展開で面白いように思う。何となく、パウル・クレーの絵画のような抽象性をイメージしてしまう。